序論:監査テック革命 — AIが拓く会計監査の新たな地平
テクノロジーの進化が、会計監査の世界に構造的な変革をもたらしています。これは単なるツールの導入といった戦術的な変化ではありません。監査の哲学、手法、そして価値そのものを再定義する、戦略的な地殻変動です。この変革の中核をなすのが「監査テック(Audit Tech)」です。
監査テックとは、人工知能(AI)、ロボティック・プロセス・オートメーション(RPA)、そしてビッグデータ解析といった最先端技術を会計監査の実務に統合し、その効率性、網羅性、洞察力を飛躍的に向上させるアプローチの総称です。これは、規制対応を目的とした技術であるRegTech(レグテック)の概念を包含しつつ、より広範な監査プロセス全体の変革を目指すものです 。
この変革は、決して技術革新のためだけの動きではありません。むしろ、現代の企業環境が抱える不可避な課題への応答として必然的に生じています。その背景には、主に三つの強力な推進力が存在します。第一に、金融危機以降に強化された規制環境です。コンプライアンスコストの増大とリスク管理の厳格化は、テクノロジーによる効率的かつ確実な統制を求める強い動機となりました. 第二に、企業のデジタルトランスフォーメーション(DX)がもたらした「データの洪水」です。企業活動から生成される膨大な電子データは、もはや人手によるサンプリングベースの監査ではその全体像を捉えきれなくなっています 。そして第三に、監査を受ける企業自身のDXです。クライアントがデジタル化を進める中で、監査法人もまた、そのビジネスプロセスを深く理解し、リスクを的確に評価するために、同等以上のデジタル対応能力を持つことが不可欠となったのです 。
したがって、監査テックは監査法人の内部的な問題にとどまりません。経営者、監査役、CFO、内部監査担当者といった企業のガバナンスを担う全てのステークホルダーにとって、これは極めて重要な戦略的テーマです。監査テックを理解することは、自社のガバナンス体制を強化し、事業プロセスに潜むリスクや非効率性をより深く洞察し、そして監査法人との対話をより建設的で付加価値の高いものへと変えるための鍵となります 。監査はもはや、過去の財務諸表の正しさを証明するだけの後ろ向きな手続きではなく、未来の企業価値向上に貢献する、洞察に満ちたプロセスへと進化を遂げつつあるのです。
この変革の全体像を把握するために、まず伝統的な監査と監査テックを活用した監査の比較を以下の表に示します。
表1:伝統的監査と監査テックを活用した監査の比較
特徴 | 伝統的監査 | 監査テックを活用した監査 |
スコープ(範囲) | サンプルベース(試査) | 全量データ分析 |
手法 | 手作業による証憑突合、実地棚卸 | 自動データ照合、AIによる異常検知 |
タイミング | 定期的(例:期末) | 準リアルタイム、継続的モニタリング |
監査人の役割 | 既知の誤謬の検証・発見に重点 | 例外事項の調査とビジネスインサイトの提供に重点 |
企業との対話 | 主に資料要求とインタビュー | 協働データプラットフォーム、データ異常に関する対話 |
主要な成果物 | 監査意見 | 監査意見 + 内部統制や事業プロセスに関する洞察 |
この表が示すように、監査テックは監査のあらゆる側面を根本から変えようとしています。本稿では、この変革を「効率化」と「高度化」という二つの側面から深く掘り下げ、リモート監査への応用、被監査企業に求められるデータ提出の未来像、そして予測分析やブロックチェーンといった先進技術が拓く未来の監査の姿までを、具体的な事例と共に解説していきます。
第1章:監査業務の変革 — RPAとAIによる「効率化」の最前線
監査テックがもたらす最も直接的で体感しやすい変化は、監査業務の抜本的な「効率化」です。従来、膨大な時間と人的資源を費やしてきた定型的かつ反復的な作業が、RPAとAIの連携によって次々と自動化されています。これにより、監査人はより高度な判断や分析といった、人間にしかできない付加価値の高い業務に集中できるようになりつつあります。
証憑突合の自動化:監査の根幹業務における革命
監査手続きの根幹をなす証憑突合は、会計記録と請求書や契約書、銀行取引明細書といった証憑書類を一つひとつ照合する、極めて労働集約的な作業でした。この領域に、AI-OCR(光学的文字認識)とAIアルゴリズムが革命をもたらしています。
例えば、ジーニアルテクノロジー社が開発した「ジーニアルAI」や、あずさ監査法人が開発した「MatchingBot_ai」といったツールは、この証憑突合プロセスを劇的に変革します 。これらのツールは、PDF化された証憑(テキストデータが埋め込まれていない画像ベースのPDFも含む)からAI-OCR技術で文字情報を高精度に読み取ります 。そして、AIがExcelなどで作成された監査調書の項目と、読み取った証憑の内容を自動的に照合し、一致する箇所をハイライト表示します。ある実証実験では、この技術により証憑突合と調書化にかかる時間が最大80%も短縮されたという結果が報告されています 。PwCあらた有限責任監査法人との実証実験では、94%という高い照合精度が確認されており、その実用性はすでに証明されています 。
データ照合と入力業務の無人化
証憑突合以外にも、監査の現場は数多くの照合・転記作業に溢れています。RPAは、こうした業務の自動化に絶大な効果を発揮します。
- 入金消込とデータ照合:RPAロボットが、定められたスケジュールで銀行のウェブサイトに自動でログインし、入金データをダウンロード。これを社内の売掛金台帳データと照合し、消込処理を実行します。不一致やエラーがあった場合には、担当者に自動でメール通知を送ることも可能です 。これにより、担当者は例外処理にのみ集中でき、月次決算の早期化にも貢献します 。この技術は、複数のシステム間にまたがるデータの照合や転送にも応用できます 。
- 帳票データの入力と転記:AI-OCRとRPAの組み合わせは、紙やPDFで受領した請求書などの帳票処理を完全に自動化する強力なワークフローを構築します。まず、AI-OCRが帳票から必要な項目(取引先名、日付、金額など)をデジタルデータとして抽出します。次に、RPAがそのデータを会計システムやERPに自動で入力します 。これにより、手入力に伴うミスを撲滅し、担当者の負担を大幅に軽減するだけでなく、データの標準化も促進されます 。
業界横断で進む自動化の波
これらの自動化技術は、特定の業種に限定されるものではありません。金融・保険業界では、保険申込書や融資申請書の処理を自動化し、審査業務の迅速化と顧客満足度の向上に繋げています 。また、反社会的勢力データベースとの照合といったコンプライアンス業務も自動化の対象です 。製造業では、手書きの検査報告書をAI-OCRで読み取り、品質管理システムに自動入力することで、品質トレーサビリティを向上させています 。医療業界においても、手書きカルテの電子化や診療報酬明細書の作成業務に活用され、医療従事者がより患者対応に時間を割ける環境づくりに貢献しています 。
監査業務の効率化は、大手監査法人が開発する独自ツールと、特定の課題解決に特化したスタートアップ企業が提供するソリューションが相互に競争・連携し合う形で進んでいます。この健全なエコシステムが技術革新を加速させ、より多くの企業がその恩恵を受けられる環境を生み出しています。
そして、この変化は監査業界の働き方、特に若手会計士のキャリアパスに大きな影響を与えます。従来、若手監査人の主要な業務であった証憑突合やデータ入力作業が自動化されることで、彼らに求められるスキルセットは根本的に変わります。キャリアの初期段階から、単なる手続きの実行者ではなく、自動化されたプロセスが検出した例外事項の原因を分析し、クライアントのビジネスプロセスを深く理解する能力、すなわちデータリテラシーと批判的思考力が求められるようになるのです。これは、会計プロフェッショナルの人材育成における長期的なパラダイムシフトの始まりを意味しています。
第2章:サンプリングから全量データ分析へ — 監査の「高度化」がもたらす不正検知とリスク洞察
監査テックがもたらす変革は、単なる「効率化」にとどまりません。むしろ、その真価は監査の「高度化」、すなわち品質と洞察力の飛躍的な向上にあります。その核心にあるのが、従来の「試査(サンプリング)」から「全量データ分析」への移行です。
試査の限界と全量データ分析の威力
伝統的な監査は、統計的な有意性を確保しつつも、全ての取引の中から一部を抽出して検証する「試査」に依存してきました。このアプローチは、限られたリソースの中で合理的な監査意見を形成するための有効な手段でしたが、本質的な限界も抱えていました。例えば、巧妙に隠された単発の不正取引や、個々は見過ごされるほど微細でも全体として重大な影響を及ぼすシステム的な異常を見逃すリスクが常に存在したのです。
これに対し、監査テックは企業の会計システムから生成される全ての取引データ(例えば、数百万件に及ぶ仕訳データ)を分析対象とすることを可能にしました 。この全量データ分析は、監査の精度を新たな次元へと引き上げます。
- 異常値と特異点の検出:AIアルゴリズムは、全仕訳データをスキャンし、通常の業務パターンから逸脱した取引を瞬時に識別します。例えば、「深夜や休日に計上された仕訳」「権限のない従業員による入力」「通常ではありえない勘定科目の組み合わせ」といった異常な取引を自動でフラグ立てします 。これにより、監査人はリスクの高い領域に調査を集中させることができます。
- 不正シナリオの検知:より高度なAIモデルは、過去に発覚した不正会計の事例データを学習し、それに類似したパターンをクライアントのデータから見つけ出すことができます。PwCのフォレンジックサービスなどが提供するデータ分析ソリューションは、従来のモニタリング手法では検出困難だった不審な取引や関係性を特定し、潜在的な不正リスクをあぶり出します 。
AI不正検知モデルの具体例:デロイト トーマツの特許技術
こうしたAIによる不正検知が具体的にどのように機能するのかを、有限責任監査法人トーマツが特許を取得した不正検知モデルを例に解説します 。
- 基盤技術:このモデルは、予測性能に優れた機械学習技術である「勾配ブースティング」をベースにしています。不正事例は正常な事例に比べて極端に少ないという「不均衡データ」の問題や、学習データに過剰に適合してしまう「過学習」の問題に対応するための様々な技術が組み込まれています。
- スコアリングの仕組み:過去に公表された有価証券報告書および訂正報告書に含まれる膨大な財務数値をAIに学習させます。この学習済みモデルが、分析対象企業の複数の財務指標を分析し、過去の不適切事例との近似度を0から1の間のスコアとして算出します。スコアが高いほど、不正リスクが高いと評価される仕組みです。
- 説明可能なAI(Explainable AI, XAI):このモデルの最も重要な特徴は、「SHAP(SHapley Additive exPlanations)」と呼ばれるXAI技術を採用している点です。AIがなぜ高いリスクスコアを算出したのか、その根拠を「どの財務指標が、どの程度スコアに影響を与えたか」という形で具体的に示すことができます。これは監査実務において決定的に重要です。監査人は、専門的懐疑心に基づき自らの判断に責任を負う必要があり、「AIがそう判断したから」という理由は決して許されません 。XAIは、AIという強力なツールが出した結論の根拠を人間が理解し、批判的に吟味することを可能にする、テクノロジーと専門的判断とを繋ぐ架け橋なのです。
全量データ分析への移行は、監査人がクライアントに投げかける根本的な問いを変化させます。従来の試査が「抽出したサンプルに重要な誤りはないか?」を検証するものであったのに対し、全量分析は「なぜ、データ全体の中にこのような特異なパターンが存在するのか?」という問いを提起します。監査の対話は、「請求書を60件見ましたが問題ありませんでした」という報告から、「全200万件の請求書を分析したところ、これらの特徴を持つ150件の例外が検出されました。この背景について議論しましょう」という、より本質的で洞察に富んだものへと深化します。これは、監査が単なる検証作業から、企業のビジネスプロセスや内部統制の健全性を診断する、付加価値の高いコンサルテーションへと進化していく姿を示唆しています。
第3章:ニューノーマル時代の監査 — リモート監査を支えるテクノロジーとその実務的課題
COVID-19のパンデミックは、期せずして監査実務における大規模な実証実験の場となりました。出張や対面での業務が著しく制限される中、監査法人は「リモート監査」への移行を余儀なくされ、その過程で多くのメリットと課題が浮き彫りになりました。そして、その課題を克服し、リモート監査をニューノーマル時代の標準的な手法として確立する上で、監査テックが中心的な役割を果たしています。
リモート監査の光と影
リモート監査の導入は、監査プロセスに明確な利点をもたらしました。
- 効率性とコスト削減:監査チームの移動時間や交通費・宿泊費といった経費が大幅に削減されます。これにより捻出されたリソースを、より頻繁なオンラインでの進捗確認や、地理的に離れた場所にいる専門家の監査への参加に振り向けることが可能になります 。
しかし同時に、物理的な制約から生じる深刻な課題も明らかになりました。
- 物理的検証の限界:現金や有価証券、そして在庫といった実物の資産を直接観察・確認することが困難になります 。カメラ越しの映像は、監査人がその場で自由に視点を変えたり、手に取って質感を確認したりといった「現場での肌感覚」を得ることを妨げます 。
- コミュニケーションの質の変化:オンライン会議は効率的である一方、対面での対話に比べて非言語的な情報(表情の機微、場の空気など)が伝わりにくく、特に経営者の「トーン・アット・ザ・トップ」の評価や、監査の前提となる信頼関係の構築が難しくなる側面があります 。
- 被監査側の負担増:従来は紙で保管されていた証憑類を、監査人の要求に応じてスキャンし、電子化して提出する作業は、被監査企業の経理部門にとって新たな負担となり得ます 。
テクノロジーが拓くリモート監査の可能性
監査テックは、これらのリモート監査特有の課題を克服するための強力なソリューションを提供します。
- 物理資産の遠隔検証:在庫の実地棚卸立会において、ドローンがその威力を発揮しています。例えば、発電所に野積みされた石炭の棚卸監査では、ドローンが上空から撮影した高精細な画像データを元に体積を正確に測定し、物理的な在庫量を検証することに成功しています 。これにより、監査人は危険な場所に立ち入ることなく、安全かつ効率的に監査証拠を入手できます。今後は、現場作業員が装着したスマートグラスを通じて、監査人が遠隔地からリアルタイムで指示を出しながら設備や作業状況を視察するような手法も普及していくでしょう。
- 安全なデータ・証憑共有:リモート監査の生命線は、監査証拠となる電子データの円滑かつ安全な授受です。各監査法人が提供するセキュアなクライアントポータルは、このための中心的な基盤となります。これらのプラットフォーム上で、監査チームと被監査企業は資料の要求リストや提出状況を一元的に管理し、バージョン管理の混乱やメール誤送信による情報漏洩のリスクを回避できます 。
リモート監査の経験を通じて得られた教訓は、全ての監査手続きをリモートに置き換えることが最適解ではない、ということです。ドローンのような技術は在庫棚卸といった特定の課題を解決できますが、経営者へのインタビューを通じて不正の兆候を察知するといった、人間の機微な判断が求められる手続きを完全に代替することはできません。
したがって、今後の監査は、定型的なデータ分析や書類監査はリモートで効率的に行い、不正リスクが高いと評価される領域や、複雑な実物資産の検証、経営層との重要な対話など、物理的な臨場感が不可欠な手続きについては重点的に現地往査を行う、という「ハイブリッド型」のアプローチが主流となるでしょう。このリスクベースのアプローチは、監査の品質を維持・向上させながら、双方の効率性を最大化する合理的な帰結と言えます。
第4章:被監査企業への影響 — 監査法人から求められるデータ提出の未来像
監査テックの進化は、監査法人がクライアントである被監査企業に対して要求するデータの種類と形式に、根本的な変化を促しています。監査人のツールが高度化するにつれて、監査はもはやPDFやExcelファイルの電子メールでのやり取りといった牧歌的な時代に留まることはできません。これからの監査は、構造化され、標準化されたデータを基盤として行われるようになります。
データ標準化への大きな潮流
被監査企業にとって最も重要な変化は、監査データの「標準化」に向けた動きです。これは、各社各様の会計システムやERPから出力されるデータを、監査手続きで利用しやすい共通の形式に整える取り組みです。
この動きは世界的な潮流であり、米国公認会計士協会(AICPA)の「監査データ標準(Audit Data Standards, ADS)」や、国際標準化機構(ISO)の「ISO 21378(Audit Data Collection)」といった基準がすでに公表されています 。日本国内においても、日本公認会計士協会(JICPA)がこの流れを主導しており、2022年3月には「監査データ標準化に関する留意事項とデータアナリティクスへの適用」(IT委員会研究報告第60号)を公表し、国内における指針を示しました 。
これらの標準が対象とするのは、企業の主要な業務プロセスに関連するデータモジュールです。被監査企業が今後、監査法人からどのようなデータの提出を求められるようになるのか、ISO 21378を基に具体的に示したのが以下の表です。
表2:監査データ標準化における主要なデータモジュール(ISO 21378に基づく)
モジュール | 説明 | 主要なデータ項目(例) | 企業側への示唆 |
GL(総勘定元帳) | 全ての財務取引の基幹台帳。 | 仕訳日、金額、勘定科目コード、計上日、入力者ID、摘要。 | ERPが要約残高だけでなく、詳細な仕訳データを完全な形で出力できることを確認する必要がある。 |
AR/SAL(売掛金/売上) | 顧客への請求と入金を管理。 | 請求書番号、顧客ID、日付、金額、商品・サービスID、支払条件。 | 受注、出荷、請求の各データ間での整合性確保が極めて重要になる。 |
AP/PUR(買掛金/購買) | サプライヤーへの支払を管理。 | 発注書番号、仕入先ID、請求書日付、金額、GLコード、承認ワークフロー記録。 | 発注、検収、請求の各プロセスを電子的に紐付けられる体制が鍵となる。 |
INV(在庫) | 在庫の数量と価値を追跡。 | 品目ID、保管場所、現在数量、単価、最終移動日、評価方法。 | 期末時点のスナップショットだけでなく、詳細な日時情報を含む在庫受払記録の提供が求められる。 |
データ授受のプラットフォーム化と直接接続
データの標準化と並行して、その受け渡し方法も進化しています。監査法人各社は、PwCの「Workbench」やEYの「Canvas」に代表される、セキュアな専用クライアントポータルを導入しています 。これらのプラットフォームは、監査に関する全てのやり取りの「唯一の信頼できる情報源(Single Source of Truth)」として機能し、依頼事項の進捗管理を効率化するとともに、監査の状況をリアルタイムで双方に可視化します。
さらに先進的な取り組みとして、ETL(Extract, Transform, Load)ツールを用いたERPシステムへの直接接続も始まっています。これは、監査人がクライアントのシステムに直接アクセスし、必要なデータを定期的かつ自動的に抽出する仕組みです。あずさ監査法人では、すでに約100社の企業グループに対してこのETLツールを適用し、日次から四半期まで、監査ニーズに応じた頻度でデータを取得・活用しています 。
これらの変化が示すのは、監査テック革命の成否が、いかに質の高い標準化されたデータを効率的に入手できるかにかかっている、という事実です。第2章で述べた高度なAI不正検知モデルも、入力データがクリーンで構造化されていなければ、その真価を発揮できません。データ標準化は、単なる利便性のための改善ではなく、AI監査という新しいパラダイムを社会実装するための必須のインフラ整備なのです。
この文脈において、監査法人と被監査企業の関係性もまた変容を遂げます。年に一度、期末に集中して行われる資料のやり取りという「イベント型」の関係から、セキュアなプラットフォームや直接接続を通じて常にデータが共有される「継続的なパートナーシップ」へと移行していくのです。これは、次章で述べる「継続的監査」という未来の監査モデルを実現するための技術的な土台を築くものであり、監査が企業のガバナンス体制に常時組み込まれていく未来を予感させます。標準化されたデータを提供できる体制を構築した企業は、よりスムーズで迅速、かつ洞察に満ちた監査を享受できることになるでしょう。
第5章:未来への展望 — 予測分析とブロックチェーンが描く次世代の監査
これまで見てきた監査テックの進化は、現在の監査業務をより効率的かつ高度なものへと変革しています。しかし、その射程はさらに未来へと伸びています。予測分析、ブロックチェーン、そして継続的監査といった概念は、監査が「過去の検証」から「未来への洞察」を提供する機能へと進化する可能性を示唆しています。
予測分析:過去の異常検知から未来のリスク予測へ
現在のデータ分析は、主に過去の取引データの中から異常なパターンを「検知」することに焦点を当てています。次なるフロンティアは、これらのデータを活用して未来のリスクを「予測」することです。
AIモデルは、過去の販売データや市場トレンドを分析し、将来の陳腐化リスクが高い在庫品目を予測することができます。また、顧客の支払い履歴や財務状況から、債権の貸倒れリスクが高い取引先を事前に特定することも可能になるでしょう 。さらに、各事業部門の業績データや経費の利用パターンを時系列で分析し、内部統制の不備や不正が発生する確率が高まっている部門に対して、早期に警告を発することも考えられます。これにより、監査は問題が発生した後にそれを発見する「事後対応型」から、問題が発生する前にその兆候を捉え、未然に防ぐ「予防型」へと進化していく可能性があります。
ブロックチェーン:改ざん不可能な唯一の真実か?
ブロックチェーン技術は、その非中央集権的かつ暗号学的に保護された台帳技術により、監査の世界に大きな期待を寄せられています。
- 期待される役割:理論上、全ての取引がブロックチェーン上に記録されれば、一度記録された取引は後から改ざんすることが極めて困難になります。これにより、取引履歴の信頼性が飛躍的に向上し、監査における照合や突合といった手続きが大幅に簡素化される可能性があります。
- 現実と限界:しかし、ブロックチェーンは万能の解決策ではありません。最も大きな課題は「Garbage in, garbage out(ゴミを入れれば、ゴミしか出てこない)」という問題です。ブロックチェーンは、たとえ不正な取引であっても、一度記録されればそれを「改ざん不可能」な事実として完璧に記録します。取引の経済的実態が伴っているか(例えば、実態のない循環取引ではないか)を判断するのは、依然として監査人の専門的判断に委ねられます 。また、暗号資産の世界では、スマートコントラクトの脆弱性を突いたハッキングが頻発しており、その監査が重要な課題となっています。この領域では、AIを活用してスマートコントラクトのコードを自動で監査し、脆弱性を発見するサービスが登場しており、従来の人的監査に比べて10倍のスピードと90%のコスト削減を実現するなど、新たなユースケースも生まれています 。
究極の目標:継続的監査(Continuous Auditing)
予測分析やブロックチェーンといった個々の技術が統合された先に見える監査の究極の姿、それが「継続的監査」です。この概念は数十年前に提唱されたものですが、近年のテクノロジーの進展により、ようやく現実的な目標として捉えられるようになりました 。
- 定義と仕組み:継続的監査とは、監査保証を年次や四半期といった特定の時点で行うのではなく、取引が発生するのとほぼ同時に、リアルタイムまたは準リアルタイムで継続的に提供するアプローチです 。企業のERPシステムから取引データがリアルタイムで監査プラットフォームに連携され、AIがそのデータを常時監視します。事前に設定されたルールや機械学習モデルに基づき、異常な取引が検知されると、即座に監査チームと企業の担当者にアラートが通知されます 。これにより、問題点を期末まで放置することなく、発生後すぐに調査・修正することが可能になります。
- もたらされる価値:企業にとっては、ガバナンス体制が格段に強化され、期末に予期せぬ問題が発覚する「イヤーエンド・サプライズ」を回避できます。投資家や市場にとっては、よりタイムリーで信頼性の高い財務情報が提供されることになり、資本市場全体の効率性と健全性が向上します。
この未来像が示すのは、監査テックの最終的な到達点が、単に現在の監査を速く、安くすることではないということです。それは、監査を期末に一度行われる、過去を振り返るための「イベント」から、企業のガバナンス・エコシステムに常に組み込まれ、未来のリスクを照らし出す「継続的なプロセス」へと変革することに他なりません。これは、経営者が長期的な戦略的視点として認識すべき、会計監査の未来の姿です。
結論:経営者が今、監査テックとどう向き合うべきか
本稿では、監査テックが会計監査にもたらす変革を、「効率化」と「高度化」という二つの側面から多角的に掘り下げてきました。RPAとAIによる定型業務の自動化は、監査の生産性を飛躍的に向上させ(第1章)、AIを活用した全量データ分析は、サンプリングの限界を超えて不正や異常の検知能力を新たな次元へと引き上げました(第2章)。また、パンデミックを契機に普及したリモート監査は、テクノロジーの活用を前提としたハイブリッド型の新しい監査モデルを生み出し(第3章)、それに伴い、被監査企業には標準化されたデータ提供という新たな要請が突きつけられています(第4章)。そしてその先には、予測分析や継続的監査といった、監査の役割そのものを再定義する未来が待っています(第5章)。
これらの変化を通じて明確になるのは、監査テックがもはや監査法人の内部的な効率化ツールではなく、企業のガバナンス、リスクマネジメント、そして経営戦略そのものに深く関わる、経営マターであるという事実です。監査に対応可能なデータ基盤を整備することは、単なるコンプライアンスコストではなく、自社の事業プロセスを可視化し、非効率性やリスクを早期に発見するための戦略的な投資となります。それは、結果として企業の競争優位性にも繋がるのです。
では、経営者や実務担当者は、この大きな潮流にどう向き合うべきでしょうか。最も重要なのは、受け身の姿勢ではなく、プロアクティブ(能動的)なエンゲージメントです。自社の監査法人との対話を開始し、以下の点について議論を深めることを推奨します。
- 監査法人のロードマップの確認:「貴法人では、どのような監査テック(自動化ツール、データ分析プラットフォーム等)を導入していますか?その効果を最大化するために、我々の社内プロセスやデータ形式をどのように連携させていくべきでしょうか?」
- データ要件の具体化:「来期以降の監査で求められるデータの具体的なフォーマットや項目について教えてください。日本公認会計士協会やISOが推進するデータ標準化に対して、貴法人はどのような方針をお持ちですか?」
- 付加価値への期待:「貴法人が実施するデータ分析から、通常の監査意見に加えて、我々の内部統制や業務プロセスの改善に繋がるどのようなインサイト(洞察)を得ることが期待できますか?」
監査テックの時代における監査は、もはや一方的な検証作業ではありません。それは、標準化されたデータを共通言語として、監査法人と被監査企業が協働し、企業の価値向上を目指す対話のプロセスです。データ品質の向上と、監査テックに対応可能なシステムへの投資は、未来のビジネス環境を勝ち抜くための、より透明で、効率的で、強固なガバナンス体制を築くための、最も確実な一歩となるでしょう。