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導入:なぜ今、「会計上の見積り」の開示が重要なのか?
企業の経営者や実務担当者の皆様は、日々、不確実な未来と向き合いながら意思決定をされています。「この売掛金は本当に全額回収できるのか?」「この工場の資産価値は、帳簿に記載されている通りの価値が本当にあるのだろうか?」こうした問いは、ビジネスの現場におけるリアルな悩みではないでしょうか。
財務諸表は、一見すると「100万円」といった確定的な数字で企業の財政状態や経営成績を示します。しかし、その数字の背後には、こうした将来の不確実性に対する「見積り」が数多く含まれています 。
この「見積り」の透明性を高めるため、2021年3月31日以後終了する事業年度から「会計上の見積りの開示に関する会計基準」(企業会計基準第31号)が適用開始となりました 。この会計基準は、決算業務を複雑にするために導入されたわけではありません。むしろ、財務諸表の利用者(投資家など)に対して、
財務諸表に潜む将来のリスクに関する重要な情報を提供し、企業との建設的な対話を促すことを目的としています 。
本記事では、公認会計士の視点から、この「会計上の見積りの開示」について、4つのステップでわかりやすく解説します。専門用語を極力避け、図表や金融庁が公表している実際の開示例を交えながら、実務で本当に役立つ知識をお届けします。
Step 1: 開示対象の「見つけ方」- 重要なのは”翌年度のリスク”
この会計基準を理解する上で最も重要なポイントは、開示対象を見つける際の視点の転換です。
多くの方が「見積り額が大きい項目を開示するのだろう」と考えがちですが、それは誤解です。基準が求めているのは、当年度の財務諸表に計上した金額の大きさではなく、その見積りが「翌年度の財務諸表に重要な影響を及ぼすリスク」があるかどうか、という未来志向の視点です 。
判断の核心は「翌年度への影響」
これは、例えるなら天気予報のようなものです。重要なのは「今日の降水確率が90%です」という事実だけでなく、「明日は台風が上陸する可能性があり、甚大な影響が予想されます」という未来のリスク情報です。
会計上の見積りの開示も同様に、当年度の金額がたとえ小さくても、翌年度に経営環境の変化などでその前提が大きく崩れ、財務諸表に大きなインパクトを与える可能性があれば、開示の対象となります。このリスク判断は、「影響の金額的な大きさ」と「その事象の発生可能性」を総合的に勘案して行われます 。
開示対象となる項目・ならない項目の判断基準
具体的にどのような項目が対象になりやすいのか、表で整理してみましょう。この表は、実務で最も間違いやすい「金額の大きさ」で判断するのではなく、「翌年度のリスク」で判断するという本質を理解するのに役立ちます。
表1: 開示対象となる項目・ならない項目の判断基準
観点 | ○ 開示対象になりやすい項目 | × 開示対象になりにくい項目 |
判断の基準 | 翌年度の財務諸表に重要な影響を及ぼすリスクがあるか | 当年度の財務諸表に計上した金額の重要性 |
具体例1 | 減損の兆候はあるが、今期は損失を計上しなかった固定資産 | 安定した事業から生じている、巨額だが変動リスクの低い「のれん」 |
具体例2 | 経済環境の悪化で、来期に貸倒れが急増するリスクがある貸倒引当金 | 契約で将来のキャッシュ・フローが固定されており、変動リスクが低い資産 |
具体例3 | 翌期に結果が判明する訴訟に関する引当金 | 市場価格が日々変動する上場株式(レベル1の時価評価) |
特に注目すべきは「具体例1」です。固定資産の減損について、今期はギリギリ損失計上を回避できたとしても、来期の業績次第では多額の損失が発生するリスクがある場合、それは重要な開示対象となります 。一方で、市場価格の客観的な変動(例:上場株式の株価変動)は、経営者の見積りが介在しないため、この基準の対象外です 。
Step 2: 何を「書くべきか」- 投資家が知りたい注記事項
開示対象を特定したら、次に具体的に何を書くべきかを考えます。この注記は、財務諸表の中で「会計上の見積りの開示」として独立した項目を設けて記載する必要があります 。
基準では、識別した項目ごとに、大きく分けて2つの情報を記載するよう求めています(企業会計基準第31号 第7項)。
- 当年度の財務諸表に計上した金額
- 会計上の見積りの内容について財務諸表利用者の理解に資するその他の情報
①は、貸借対照表や損益計算書に計上されている金額そのものであり、比較的シンプルです。一方で、この開示の核心部分は②の「その他の情報」にあります。これは、単なる数字の裏付けを超えて、その見積りがどのような考え方やプロセスで行われたのかを、いわば「思考の過程」を文章で説明するものです。
「その他の情報」の3つの柱
では、「その他の情報」とは具体的に何でしょうか。基準では、企業の状況に応じて判断することが求められていますが、主に以下の3つの情報が例示されています(企業会計基準第31号 第8項)。
表2: 注記すべき「その他の情報」の具体例
情報の種類 | 内容 | なぜ重要か? |
(a) 金額の算出方法 | どのようにその見積り額を計算したかの具体的なプロセス。例:「将来5年間の事業計画に基づく割引キャッシュ・フロー法により算出」 | 計算のロジックを透明化し、その合理性を利用者が判断できるようにするためです。 |
(b) 主要な仮定 | 計算の根拠となった最も重要な変数や前提条件。例:「将来の売上成長率(年率3%)」「割引率(10.8%)」 | 見積りの「心臓部」です。この仮定が少し変わるだけで結果が大きく変わるため、リスクの源泉を特定できます。 |
(c) 翌年度への影響 | 主要な仮定が変動した場合、翌年度の財務諸表にどのような影響が出るか。定性的または定量的な情報(感応度分析など)。例:「割引率が1.5%上昇した場合、減損損失が発生する可能性」 | リスクの大きさを具体的に示します。投資家が将来の業績変動を予測するための最も直接的な情報となります。 |
これらの情報を具体的に、かつ分かりやすく記載することで、財務諸表の利用者は「この会社は自社のリスクを正しく認識し、合理的な根拠に基づいて判断している」と理解することができます。これは企業の信頼性向上に直結します。
Step 3: 【具体例で学ぶ】重要3項目の開示ケーススタディ
会計基準の条文だけを読んでも、具体的なイメージは湧きにくいものです。ここでは、金融庁が「記述情報の開示の好事例集」で紹介している実際の企業の開示例を参考に、実務で頻出する3つの項目について、どのように開示されているかを見ていきましょう 。
ケーススタディ1:固定資産・のれんの減損
固定資産やM&Aで生じた「のれん」の減損は、将来の収益性予測という不確実性の高い見積りを伴うため、開示の最重要項目の一つです 。
【味の素株式会社の開示例(一部抜粋・簡略化)】
- 対象項目: コーヒー類(日本)ののれん
- ① 計上額: のれん XXX百万円
- ② 算出方法: 資産の回収可能価額を「使用価値」により算定。使用価値の算定には、割引キャッシュ・フロー予測を用いている。
- ③ 主要な仮定:
- 将来キャッシュ・フローの予測期間:経営者が承認した事業計画に基づく3年間及び5年間
- 割引率:XX%
- ④ 翌年度への影響(感応度分析):
- 当年度において回収可能価額は帳簿価額を25,460百万円上回っている。
- 「仮に割引率が1.5%上昇した場合、減損損失が発生する可能性がある。」
この開示の優れた点は、単に「事業計画に基づき計算した」と述べるだけでなく、「割引率が1.5%上昇したら」という具体的な数値(感応度分析)を示している点です。これにより、投資家は同社ののれんがどの程度の外部環境の変化まで耐えられるのか、リスクの度合いを具体的に把握できます。これは、企業の将来性を分析する上で極めて有益な情報です。
ケーススタディ2:貸倒引当金
金融機関や売掛金が多い事業会社にとって、貸倒引当金の見積りは経営成績に直結する重要な判断です。特に、経済全体の動向に大きく左右されます 。
【株式会社三菱UFJフィナンシャル・グループの開示例(一部抜粋・簡略化)】
- 対象項目: 貸倒引当金の算定
- ① 計上額: 貸倒引当金 XXX百万円
- ② 算出方法: 過去の貸倒実績に加え、将来予測情報を加味したモデルを使用。
- ③ 主要な仮定:
- 「経営状況及び経済環境に影響を及ぼす新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の今後の見通しは高い不確実性を伴う」ことを認識。
- 「今後の景気回復ペースは各国で異なるものの経済活動と感染対策との両立を背景に総じて緩やかなものになる」という一定の仮定を置いている。
- ④ 翌年度への影響:
- 見積りは客観性や合理性を確保した最善のものだが、経済環境が想定よりも悪化した場合、追加の引当金が必要となる可能性がある。
この事例は、割引率のような明確な数値で示せない定性的な仮定を、いかに分かりやすく伝えるかという点で参考になります。「景気は緩やかに回復する」という経営者の将来に対する「世界観」を明確に示し、それが貸倒引当金の金額にどう結びついているかを説明しています。これにより、利用者は経営者がどのようなシナリオを前提に財務諸表を作成しているのかを理解できます。
出典:上記ケーススタディは、金融庁「記述情報の開示の好事例集2021」「記述情報の開示の好事例集2022」に掲載された各社の有価証券報告書を参考に、本記事の解説目的のために一部抜粋・簡略化したものです。正確な情報については、各社の有価証券報告書をご参照ください。
Step 4: 監査報告書(KAM)との深い関係 - 監査のプロが注目する点
最後に、この「会計上の見積りの開示」が、監査報告書とどのように連動するのかを理解しましょう。これは、開示を作成する企業側にとっても、それを読む利用者側にとっても非常に重要な視点です。
KAM(監査上の主要な検討事項)とは?
2021年3月期の決算から、上場企業等の監査報告書に「監査上の主要な検討事項(Key Audit Matters、略してKAM)」という項目が記載されるようになりました 。
KAMを簡単に言うと、「その会社の財務諸表監査において、担当した監査人が職業的専門家として特に重要だと判断した事項」のことです 。監査の過程で、特に時間と労力を要し、監査役等と深い議論を交わした論点がここに記載されます。
なぜ「会計上の見積り」はKAMになりやすいのか?
もうお気づきかもしれませんが、「会計上の見積りの開示」で取り上げられる項目と、KAMで取り上げられる項目は、かなりの確率で重複します。その理由は、両者の本質が同じだからです。
- 会計上の見積り: 将来の不確実性が高く、経営者の重要な判断を伴う項目。
- 監査人が特に注意を払う領域: まさに、不確実性が高く、経営者の重要な判断を伴う項目 。
つまり、企業が「ここが当社の重要な見積りです」と開示する項目は、監査人にとっても「ここが監査の最重要ポイントでした」と判断される可能性が極めて高いのです。
この関係性を理解すると、財務諸表の読み方が一層深まります。「会計上の見積りの開示」は、リスクや判断について企業自らが語るストーリーです。一方、KAMは、そのストーリーを監査人がどのように検証し、どのような点に注目したかを語るプロの視点です。
この2つを合わせて読むことで、私たちは企業の重要リスクを、いわば複眼的に、より立体的に理解することができるのです。企業側にとっては、この注記の記載内容が監査人との協議の基礎となり、KAMの記載内容と密接に整合している必要があることを意味します。経理部門だけでなく、経営層やIR部門もこの連動性を理解し、投資家との対話に備えることが不可欠です 。
まとめ
今回は、2021年3月期から適用が開始された「会計上の見積りの開示に関する会計基準」について、実務的な視点から解説しました。最後に、多忙な経営者・実務担当者の皆様に、これだけは押さえていただきたい3つのポイントをまとめます。
- 注目すべきは「翌年度のリスク」:開示対象を選ぶ基準は、当年度の金額の大きさではありません。翌年度の業績に大きな影響を与える可能性のある見積り項目を特定することが出発点です。
- 「なぜその金額か」を具体的に説明する:単に見積り額を示すだけでなく、その「算出方法」と、計算の前提となった「主要な仮定」(成長率、割引率など)を具体的に記載することが、信頼性の高い開示の鍵です。
- 開示は投資家との対話ツール:この開示は、監査報告書のKAMと連動する重要な情報です。自社の重要リスクとそれに対する経営判断を、社外のステークホルダーに明確に伝えるための強力なコミュニケーションツールとして活用しましょう。
この会計基準は、企業が自らの事業リスクと真摯に向き合い、その判断プロセスを透明化することを促すものです。適切に対応することで、財務報告の信頼性を高め、資本市場からの評価向上に繋げることができるでしょう。
よくある質問(Q&A)
「会計上の見積りの開示」で、一番重要なポイントは何ですか?
最も重要なポイントは、開示する項目を「当年度の金額の大きさ」で選ぶのではなく、「翌年度の財務諸表に重要な影響を及ぼすリスクがあるか」という未来志向の視点で判断することです。将来の不確実性が高く、前提条件が少し変わるだけで翌年度の利益や資産額が大きく変動する可能性のある項目が主な対象となります。
固定資産の減損について、損失を計上していない場合でも開示は必要ですか?
はい、必要となる場合があります。当年度の決算では減損損失の計上を回避できたとしても、その判断の前提となった事業計画の達成に高い不確実性があるなど、翌年度の経営環境の変化によっては減損損失を計上するリスクが高いと判断される場合、本会計基準に基づく開示の対象となります。
この開示と、監査報告書の「監査上の主要な検討事項(KAM)」にはどのような関係がありますか?
両者には非常に強い関連性があります。「会計上の見積りの開示」で企業が重要と判断した項目は、不確実性が高く経営者の重要な判断を伴うため、監査人にとっても監査における最重要検討事項(KAM)となる可能性が極めて高いです。企業の開示(自社のストーリー)とKAM(監査人の検証ストーリー)を合わせて読むことで、企業の重要リスクを多角的に理解することができます。
ここでは、あくまで私個人の視点から、皆様のご参考としていくつかの書籍を挙げさせていただきます。