はじめに:避けては通れないESG開示の波—2025年以降の経営アジェンダ
「ESG情報開示について、我が社は具体的にいつから、何をすべきなのか?」 多くの経営者やIR・サステナビリティ担当者が抱えるこの切実な問いは、もはや一部の専門部署の課題ではありません。取締役会が主導すべき、企業価値の根幹に関わる経営アジェンダへと急速に変化しています。
2025年を境に本格化するESG情報開示の義務化は、企業の価値評価のあり方を根本から変える地殻変動です。これは単なる報告業務の追加ではなく、非財務情報が財務情報と同等の重要性を持ち、投資家や金融機関、さらには顧客や従業員といったあらゆるステークホルダーからの評価を左右する時代の到来を意味します。
本稿は、この新たな潮流に直面する日本企業の経営者および実務担当者の皆様に向けた、包括的なガイドブックです。なぜ今、世界的にESG情報開示が義務化されるのか、その背景にあるグローバルな要請を解き明かし、日本国内(SSBJ基準)および影響の大きい海外(EUのCSRD)における義務化の具体的なロードマップを詳説します。さらに、開示が求められる情報の核心である「気候関連」「人的資本」「ガバナンス」の3本柱について、何をどのように報告すべきかを具体的に解説し、最後に、この複雑なコンプライアンス課題を、いかにして企業価値向上と競争力強化の戦略的機会へと転換していくか、その実践的なフレームワークを提示します。
1. なぜ今なのか?ESG情報開示を義務化するグローバルな潮流
ESG情報開示の義務化は、日本独自の動きではありません。むしろ、政治、市場、規制という3つの強力なグローバルな力が収斂した、不可逆的な潮流の結果です。この背景を理解することは、自社の対応戦略を策定する上で不可欠な第一歩となります。
投資のパラダイムシフト:財務情報から非財務情報へ
現代の企業価値評価において、最も大きな変化は、投資家の評価軸が従来の財務諸表だけでは捉えきれない領域へと拡大したことです。気候変動への耐性、人的資本の質、ガバナンスの健全性といった非財務要素が、企業の長期的な収益創出能力やリスク管理能力を直接的に左右するとの認識が、機関投資家の間で確固たるものとなりました 。
かつて「倫理的投資」といったニッチな分野と見なされていたESG投資は、今や長期的なリターンを追求するための主流なリスク管理手法となっています。機関投資家は、投資先企業の長期的な価値創造力を判断するため、質の高い非財務情報の開示を強く要請しています 。彼らは、ESG情報を活用して、気候変動がもたらす物理的・移行的リスクや、人材流出のリスク、サプライチェーンにおける人権問題といった、貸借対照表にはまだ現れない潜在的なリスクを評価し、投資判断に織り込んでいるのです。
グローバル目標から企業活動へ:パリ協定とSDGsの影響
この投資家の動きを加速させたのが、パリ協定やSDGs(持続可能な開発目標)といった国際的な合意です。2015年に採択されたパリ協定は、世界の平均気温上昇を産業革命以前に比べ1.5∘Cに抑える努力を追求するという野心的な目標を掲げました 。この目標達成のためには、今世紀後半の脱炭素社会の実現が不可欠であり、企業には事業活動における温室効果ガス(GHG)排出量の抜本的な削減が求められます。
これにより、企業の気候変動への対応は、社会貢献活動から経営戦略そのものへと変貌しました。GHG排出削減に積極的な企業は、新たな規制や市場の変化に対応できる「移行リスク」への耐性が高いと評価され、融資や顧客を獲得しやすくなる一方、対応が遅れる企業は将来的な収益機会を失う「機会損失」のリスクに晒されます 。パリ協定やSDGsは、こうした非財務リスク・機会を顕在化させ、ESG投資の急速な拡大を後押しする強力なエンジンとなったのです 。
共通言語の探求:グローバル基準を策定するISSBの役割
投資家からの需要が高まる一方で、ESG情報の開示基準は乱立し、「アルファベット・スープ」と揶揄される混乱状態にありました。各企業が異なる基準で情報を開示するため、投資家は企業間の比較可能性を確保できず、また「グリーンウォッシング(見せかけの環境配慮)」のリスクも高まりました。
この課題に対応するため、G20などの要請を受け、IFRS財団傘下に2021年に設立されたのがISSB(国際サステナビリティ基準審議会)です。ISSBの使命は、資本市場の参加者、特に投資家の意思決定に有用な情報に焦点を当てた、サステナビリティ開示に関するグローバルなベースライン(共通の基準)を開発することです 。
ISSBが策定した基準(IFRS S1及びS2)は、世界中の規制当局が自国の開示義務化ルールを策定する際の基礎となっており、日本のサステナビリティ基準委員会(SSBJ)も、このグローバルベースラインとの整合性を確保しつつ、国内基準の開発を進めています 。これにより、日本企業が開示する情報が国際的な比較可能性を担保し、グローバル市場での競争力を維持することが可能になるのです。
このように、地球規模の政策目標(パリ協定)が市場の需要(投資家の要請)を生み、その需要が規制の標準化(ISSBの設立)を促すという連鎖が、現在のESG情報開示義務化という大きなうねりを生み出しているのです。
2. 日本における義務化ロードマップの全貌
日本国内におけるESG情報開示の義務化は、すでに始まっています。2023年の人的資本に関する開示拡充を皮切りに、今後はSSBJが策定する日本版基準に基づき、段階的にその対象と範囲が拡大していきます。
第一歩:2023年3月期から始まった人的資本・多様性開示
日本の義務化に向けた重要な布石となったのが、2023年3月期決算から適用された「企業内容等の開示に関する内閣府令」の改正です 。この改正により、有価証券報告書において、サステナビリティ情報に関する記載欄が新設され、人的資本と多様性に関する情報開示が義務付けられました。
具体的には、以下の項目が開示対象となりました。
- 「サステナビリティに関する考え方及び取組」欄(新設)における開示
- 人材育成方針:従業員の能力開発やキャリア形成をどのように支援していくかという企業の方針。
- 社内環境整備方針:多様な人材が活躍できる職場環境をどのように構築していくかという方針。
- 上記方針に関する指標、目標及び実績:各企業が重要と判断した測定可能な指標(例:研修時間、従業員エンゲージメントスコア)とその目標値、実績を開示。
- 「従業員の状況」欄における開示
- 女性管理職比率
- 男性の育児休業取得率
- 男女間の賃金格差
- これら3つの指標は、「女性活躍推進法」や「育児・介護休業法」に基づき公表義務のある企業が、有価証券報告書においても開示することが求められます 。
この2023年の改正は、企業が非財務データを収集・検証し、戦略的な文脈で報告する社内プロセスを構築するための、いわば「準備期間」としての意味合いを持ちます。ここで得られた経験が、今後本格化するSSBJ基準への対応の礎となるのです。
本番:SSBJ「サステナビリティ開示基準」の適用スケジュール
今後の日本におけるサステナビリティ開示の中核をなすのが、サステナビリティ基準委員会(SSBJ)が策定する日本版の開示基準です。SSBJは、ISSBが公表したグローバル基準(IFRS S1・S2)を基礎としつつ、日本の実情を考慮した基準を開発しており、2025年3月末までに最終基準が公表される予定です 。
このSSBJ基準の適用は、企業の準備期間を考慮し、時価総額に応じて段階的に義務化される見通しです。金融庁の審議会で示されたロードマップ案に基づくと、スケジュールは以下のようになります 。
表1:日本におけるサステナビリティ開示義務化ロードマップ(SSBJ基準)
報告対象年度 | 報告年 | 適用対象企業 |
2026年度 | 2027年 | 全企業において任意適用開始 |
2027年度 | 2028年 | 【義務化開始】 プライム市場上場企業のうち時価総額3兆円以上の企業 |
2028年度 | 2029年 | 【対象拡大】 プライム市場上場企業のうち時価総額1兆円以上の企業 |
2029年度 | 2030年 | 【対象拡大】 プライム市場上場企業のうち時価総額5,000億円以上の企業 |
2030年代前半(予定) | 未定 | プライム市場上場企業全社への適用を想定 |
このロードマップは、日本がグローバルな潮流に乗り遅れることなく、かつ国内企業の実務負担にも配慮した現実的なアプローチと言えます。日本はISSB基準をそのまま導入するのではなく、「調整された上での整合性(Calibrated Alignment)」戦略をとっています。つまり、国際的な比較可能性を担保するためにISSBの要求事項をすべて取り入れつつも、例えばGHG排出量の算定方法などで日本独自の選択肢を許容するなどの柔軟性を持たせています 。
経営者にとって重要なのは、法的な最低要求である日本版基準への準拠はもちろんのこと、グローバルな投資家は純粋なISSB基準をベンチマークとして企業を評価するという視点です。したがって、国際市場で高く評価されることを目指す企業は、国内基準のミニマムな対応に留まらず、より厳格なグローバル基準を視野に入れた開示を目指すべきでしょう。
将来展望:スタンダード市場・非上場企業への拡大可能性
現在の議論はプライム市場上場企業が中心ですが、将来的にはその対象が拡大していく可能性が高いと考えられます。金融庁のワーキング・グループでは、スタンダード市場やグロース市場の上場企業、さらには社会的・経済的インパクトの大きい非上場企業への適用拡大も視野に入れた議論が続けられています 。
たとえ法的な義務化がすぐには及ばないとしても、非上場企業、特に大企業のサプライチェーンを構成する中堅・中小企業にとって、ESG情報開示はもはや他人事ではありません。取引先である大企業がScope3(サプライチェーン全体の排出量)を開示するためには、サプライヤーからのデータ提供が不可欠となるためです。また、金融機関が融資判断において企業のサステナビリティへの取り組みを評価する動きも強まっており、実質的な開示圧力が市場全体に広がっていくことは確実です 。シンガポールのように、すでに大手の非上場企業に気候関連開示を義務付けている国も出てきており 、日本もいずれこの方向に進む可能性は十分に考えられます。
3. グローバルな視点:EU「企業サステナビリティ報告指令(CSRD)」への対応
日本国内の動向と並行して、グローバルに事業を展開する日本企業が特に注視すべきなのが、EUの「企業サステナビリティ報告指令(CSRD)」です。この規制は、その適用範囲の広さと要求水準の高さから、グローバルなサステナビリティ報告のスタンダードを塗り替えるインパクトを持っています。
CSRDとは?その目的と「ダブル・マテリアリティ」の概念
CSRDは、従来の非財務情報報告指令(NFRD)に代わり、2023年1月に発効したEUの法律です。適用対象企業を約12,000社から約50,000社へと大幅に拡大し、報告内容の厳格化と標準化、第三者保証の義務化を導入しました 。
CSRDを理解する上で最も重要な概念が「ダブル・マテリアリティ」です。これは、企業がサステナビリティ情報を評価する際に、2つの側面から重要性(マテリアリティ)を判断することを求める考え方です 。
- フィナンシャル・マテリアリティ(Financial Materiality / Outside-In) 気候変動や新たな規制といったサステナビリティ関連の課題が、企業の財務状況(キャッシュフロー、収益、リスクなど)にどのような影響を与えるかという視点。これは、投資家の意思決定を重視するISSBや日本のSSBJ基準が採用する考え方と軌を一にしています。
- インパクト・マテリアリティ(Impact Materiality / Inside-Out) 企業の事業活動が、環境(例:生物多様性の損失、水質汚染)や社会(例:サプライチェーンにおける人権、地域社会への影響)にどのような影響を与えるかという視点。こちらは、企業の財務への直接的な影響の有無にかかわらず、地球と人々へのインパクトそのものを重視します。
CSRDでは、これら2つのうち、いずれかの観点から重要であると判断された項目はすべて開示の対象となります。この点が、フィナンシャル・マテリアリティに重点を置くISSB/SSBJ基準との最大の違いです。
日本企業が適用対象となる条件とスケジュール
CSRDはEU域外の企業にも適用される「域外適用」の性質を持っており、多くの日本企業が直接的・間接的な影響を受けます。自社がいつから、どのような形で対象となるかを正確に把握することが不可欠です。
表2:日本企業のEU CSRD適用スケジュール
報告義務の対象 | 適用条件 | 最初の報告年度 |
EU域内の大規模子会社 | EUに拠点を置く子会社が、以下の3つの基準のうち2つを満たす場合: ・従業員250人超 ・純売上高5,000万ユーロ超 ・総資産2,500万ユーロ超 | 2025年度 (2026年に報告) |
EU域内の上場子会社(中小企業) | EU規制市場に上場している中小企業の子会社。 | 2026年度 (2027年に報告) |
日本の親会社(連結報告) | 2期連続でグループのEU域内純売上高が1億5,000万ユーロを超え、かつ、EU域内に上記の大規模子会社や上場子会社、または一定規模(純売上高4,000万ユーロ超)の支店を持つ場合。 | 2028年度 (2029年に報告) |
注:本スケジュールは2024年時点の法令に基づきます。EUの法改正動向により変更の可能性があります 。
このスケジュールが示す通り、グローバルに事業を展開する多くの日本企業にとって、CSRD対応は目前に迫った課題です。特に、日本のSSBJ基準のみに対応した情報開示体制では、CSRDが要求するインパクト・マテリアリティの観点が抜け落ちてしまう「CSRDコンプライアンス・ギャップ」が生じるリスクがあります。
例えば、ある製造業の企業が日本のSSBJ基準に基づき、気候変動が自社の財務に与える影響(フィナンシャル・マテリアリティ)について報告書を作成したとします。しかし、その企業のEU子会社は、CSRDに基づき、自社の事業が地域の生物多様性に与える影響(インパクト・マテリアリティ)についても詳細な報告が求められる可能性があります。この場合、日本の親会社は、国内向けの報告体制とは別に、EU子会社のために、より広範なデータを収集・管理する並行プロセスを構築する必要に迫られるのです。
間接的な影響:サプライチェーン全体への波及
たとえ自社グループが直接の適用対象とならない場合でも、CSRDの影響から逃れることはできません。CSRDの適用対象となるEU企業と取引がある場合、そのEU企業は自社のバリューチェーン全体におけるサステナビリティ情報を報告する義務を負います 。
具体的には、EUの顧客から、製品のカーボンフットプリント(Scope3排出量)、使用されている原材料の調達における人権デューデリジェンスの状況、労働環境に関するデータなど、詳細な情報提供を求められるケースが急増します。これは、日本企業がグローバルサプライチェーンの一員として生き残るための「取引条件」となりつつあり、CSRDは川下のEU企業から川上の日本企業へと、情報開示の要請を波及させる強力なメカニズムとして機能するのです 。
4. 何を開示すべきか?3つの核心的な情報開示の柱
義務化されるESG情報の範囲は広範ですが、その中核をなすのは「気候関連」「人的資本」「コーポレートガバナンス」の3つの柱です。これらの分野で、単なるデータを羅列するのではなく、自社の戦略や財務への影響と結びつけた説得力のあるストーリー(ナラティブ)を構築することが求められます。
第1の柱:気候関連情報(TCFD提言に基づく開示)
気候関連情報の開示における世界的なデファクトスタンダードとなっているのが、金融安定理事会(FSB)によって設立された「気候関連財務情報開示タスクフォース(TCFD)」の提言です。ISSBや日本のSSBJが策定する気候変動基準も、このTCFDのフレームワークを基礎としています 。TCFDは、以下の4つの柱に沿った情報開示を推奨しています 。
- ガバナンス(Governance) 気候関連のリスクと機会を、取締役会がどのように監督し、経営陣がどのように評価・管理しているかを開示します。例えば、「取締役会傘下にサステナビリティ委員会を設置し、四半期ごとに気候関連のリスクと機会に関する報告を受け、経営戦略への反映を議論している」といった体制の説明が求められます。
- 戦略(Strategy) 気候関連のリスクと機会が、自社の事業、戦略、財務計画に与える短・中・長期的な影響を開示します。特に重要なのが、複数の気候シナリオ(例:産業革命前から気温が1.5∘C上昇するシナリオと4∘C上昇するシナリオ)を用いて、自社の戦略の頑健性(レジリエンス)を分析・説明することです 。例えば、「 1.5∘Cシナリオ下では炭素税導入によるコスト増がリスクとなるが、当社の省エネ技術への早期投資が競争優位につながる機会となる」といった分析が求められます。
- リスク管理(Risk Management) 気候関連リスク(台風の激甚化などの「物理的リスク」と、規制強化や技術変化などの「移行リスク」)を、全社的なリスクマネジメント・プロセスにどのように統合しているかを開示します。気候関連リスクを特定、評価、管理するための具体的なプロセスを説明する必要があります 。
- 指標と目標(Metrics and Targets) 気候関連のリスクと機会を評価・管理するために用いている指標と、その目標を開示します。最も重要な指標が、GHG排出量です。自社が直接排出するScope1、購入したエネルギーの使用に伴う間接排出であるScope2、そしてサプライチェーン全体からの排出であるScope3(重要性がある場合)について、算定・開示することが求められます 。加えて、GHG排出量の削減目標(例:「2030年までにScope1, 2排出量を50%削減」)とその進捗状況の開示も不可欠です。
第2の柱:人的資本と多様性
2023年の内閣府令改正で先行して義務化されたこの分野では、新たな開示基準の下で、より戦略的な情報開示が求められます。単に制度を紹介するだけでなく、人材への投資がどのように企業価値向上に結びつくのかを具体的に示す必要があります。内閣府の「人的資本可視化指針」などが示す7つの分野を参考に、自社の戦略と関連性の高い情報を開示することが推奨されます 。
- 育成:従業員一人当たりの研修時間や研修費用、スキル向上プログラムの成果 。
- エンゲージメント:従業員満足度調査やエンゲージメントサーベイの結果と、それに基づく改善策 。
- 流動性:離職率や定着率、採用・離職コスト。単なる数値だけでなく、その背景にある要因の分析が重要 。
- ダイバーシティ:義務化された女性管理職比率、男性育休取得率、男女間賃金格差に加え、国籍や年齢、障害の有無など、多様性に関する独自の目標と実績 。
- 健康・安全:労働災害発生率やメンタルヘルスに関する取り組み、健康経営への投資と効果 。
- 労働慣行:団体交渉協定の対象となる従業員の割合や、公正な賃金体系に関する方針 。
- コンプライアンス・倫理:人権デューデリジェンスの実施状況や、コンプライアンス研修の受講率 。
ここでの鍵は、「What(何をしたか)」から「So What(だから何なのか)」への転換です。例えば、「男女間の賃金格差はX%です」と報告するだけでは不十分です。「この格差を是正するためにYという施策を実行しており、これにより優秀な女性人材の定着率が向上し、製品開発におけるイノベーション創出に繋がることを期待している」というように、施策と戦略、そして期待される成果を結びつけて説明することが、投資家が求める「価値創造ストーリー」なのです 。
第3の柱:コーポレートガバナンス
ガバナンスは、他のすべてのESG情報開示の信頼性を担保する土台です。改訂された日本のコーポレートガバナンス・コードでも、取締役会がサステナビリティ課題に積極的に関与することが明確に求められています 。
投資家が特に注目する開示項目は以下の通りです。
- 取締役会の監督機能:サステナビリティ戦略の策定・監督における取締役会の役割と実効性。サステナビリティに関する専門性を持つ取締役の有無や、関連委員会での議論の内容など。
- 役員報酬との連動:サステナビリティ関連のKPI(例:GHG排出削減目標の達成度、従業員エンゲージメントスコア)が、役員報酬の決定プロセスにどのように組み込まれているか。これは、経営陣のコミットメントを示す強力なシグナルとなります 。
- 倫理とコンプライアンス:贈収賄防止や公正な競争に関する方針、サプライチェーン全体における倫理的な事業慣行を確保するための体制。
堅牢なガバナンス体制が開示されて初めて、気候変動への野心的な目標や人的資本への投資戦略が、単なる「お題目」ではなく、企業価値向上に向けた本質的な取り組みであると投資家に信頼されるのです。
5. 理論から実践へ:堅牢な開示体制の構築
ESG情報開示の義務化は、単なる報告書作成プロジェクトではありません。それは、データ収集のプロセスを再設計し、非財務情報を財務情報と同レベルの統制下に置き、新たなガバナンス体制を構築する、全社的な変革プロジェクトです。この変革を成功させるための実践的なステップを解説します。
実務担当者が直面する共通の課題
多くの企業の実務担当者は、情報開示の準備を進める中で、共通の壁に直面します 。
- データのサイロ化:GHG排出量のデータは環境部門、従業員のデータは人事部門、サプライヤーの情報は調達部門といったように、必要な情報が各部署に散在し、一元的に管理されていない。
- 手作業によるデータ収集:各拠点や子会社からExcelファイルでデータを収集しており、集計に膨大な時間がかかる上、ヒューマンエラーのリスクが高い。
- オーナーシップの不在:部門横断的なプロジェクトであるため、誰が最終的な責任を持つのかが不明確で、推進力が生まれにくい。
- 保証への対応:将来的に義務化される第三者保証に耐えうる、監査可能なデータ品質とプロセスの統制が確立されていない。
効果的な社内開示体制を構築するためのステップ
これらの課題を克服し、持続可能な開示体制を構築するには、体系的なアプローチが必要です。
- ステップ1:ガバナンスの確立 まず、取締役会の監督のもと、CFOやCSO(最高サステナビリティ責任者)といった経営層がオーナーシップを持つ、部門横断的なタスクフォースを組成します。このタスクフォースが、全社的な方針策定、リソース配分、進捗管理の責任を担います。
- ステップ2:ギャップ分析の実施 SSBJ基準やCSRDの要求事項と、自社の現在の開示状況やデータ収集プロセスとの間のギャップを徹底的に洗い出します。どのデータが不足しているのか、どのプロセスの信頼性が低いのかを明確にすることが、具体的なアクションプランの出発点となります。
- ステップ3:システムへの投資 もはやExcelによる手作業での管理には限界があります。保証に耐えうるレベルの「網羅性(グループ全体のデータを漏れなく)」「適時性(財務報告と同時に)」「正確性(監査可能な品質で)」を実現するためには、専用のESGデータマネジメント・プラットフォームへの投資が不可欠です 。これらのツールは、データ収集の自動化、換算係数の適用、進捗管理、報告書作成までを支援し、プロセスの効率化と信頼性向上に大きく貢献します。
- ステップ4:財務報告プロセスとの統合 最終的な目標は、非財務情報の報告サイクルを、財務情報の決算・報告サイクルと完全に同期させることです。これにより、財務情報と非財務情報を統合した価値創造ストーリーの一貫性を担保し、投資家への説明責任を果たすことができます 。サステナビリティ部門と経理・財務部門の緊密な連携が成功の鍵となります。
- ステップ5:保証への準備 SSBJ基準でもCSRDでも、第三者による保証(当初は「限定的保証」、将来的には「合理的保証」)が求められます 。これは、財務監査と同様に、データの収集・算定プロセス全体が文書化され、内部統制が整備され、監査証跡が追跡可能であることを意味します。保証を見据え、早期から監査法人等の専門家と連携し、プロセスを構築することが賢明です。
ケーススタディ:日立製作所の「優れたTCFD開示」に学ぶ
年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)の運用機関から「優れたTCFD開示」として高い評価を受けた日立製作所の事例は、多くの示唆を与えてくれます 。
同社の開示が評価されたポイントは、気候変動への取り組みが単独で語られるのではなく、事業セグメント別の戦略と明確に連関している点です。カーボンニュートラル実現に向けた具体的なロードマップが示され、指標と目標、そして実績が分かりやすく開示されています。これは、サステナビリティを経営の中核に据え、全社的に取り組んでいることの証左であり、他社が目指すべき一つのモデルと言えるでしょう。
中小企業・非上場企業へのメッセージ:サプライチェーンからの要請に備える
たとえ直接的な規制対象ではなくても、サプライチェーンの一員である中堅・中小企業は、取引先の大企業からESGに関する情報提供を求められる場面が確実に増加します 。CDP(旧カーボン・ディスクロージャー・プロジェクト)が実施する「CDPサプライチェーンプログラム」のように、大企業がサプライヤーに対して気候変動や水、森林に関する情報開示を要請する仕組みも広がっています 。
今から始めるべき具体的な準備として、まずは自社の事業活動におけるGHG排出量(最低でもScope1, 2)を算定し、把握することから着手すべきです。また、労働安全衛生や人権に関する自社のポリシーを文書化し、顧客からのアンケートや調査に迅速に対応できる体制を整えておくことが、将来のビジネス機会を確保する上で重要になります。これはもはや「負担」ではなく、選ばれるサプライヤーであり続けるための「必須要件」なのです 。
結論:コンプライアンスを競争優位へ
ESG情報開示の義務化という大きな波は、すべての企業にとって避けては通れない現実です。本稿で詳説したように、そのスケジュールは明確に示され、開示すべき内容の輪郭も固まりつつあります。
経営者および実務担当者が今すぐ着手すべきは、自社の立ち位置を正確に把握し、計画的な準備を開始することです。取締役会レベルでのガバナンス体制を構築し、国内外の基準に対するギャップ分析を行い、Excel依存の旧来のプロセスから脱却して、保証に耐えうるデータマネジメント基盤へ投資することが急務です。
この規制の波を、単なるコストや負担の増加と捉えるか、それとも自社の経営を変革し、新たな企業価値を創造する機会と捉えるかで、企業の未来は大きく変わるでしょう。サステナビリティを経営の根幹に統合し、データに基づいた説得力のある価値創造ストーリーをステークホルダーに提示できる企業こそが、未来の資本市場で選ばれ、優秀な人材を惹きつけ、顧客からの信頼を勝ち得ることができます。
2025年へのカウントダウンはすでに始まっています。この変革を乗りこなし、持続的な成長を遂げるための準備は、今、この瞬間から始めるべきです。