6.その他

「人的資本経営」:開示義務化で企業が取り組むべきこととは

はじめに:なぜ今、「人的資本」が経営の中心課題なのか

「人的資本経営」は、もはや人事部門だけが担う専門領域ではありません。現代の企業経営において、取締役会が議論すべき最重要アジェンダの一つとして、その地位を確立しました。この変化を決定づけたのが、2023年3月31日以後に終了する事業年度に係る有価証券報告書からの人的資本に関する情報開示の義務化です 。  

この新たな要請に対し、「何を、どこまで、どのように開示すればよいのか」と戸惑う経営者や実務担当者の方々も少なくないでしょう。本稿は、そのような方々に向けて、公認会計士の視点から、この新しい経営の潮流と開示義務について、その本質から具体的な実務対応までを網羅的に解説するものです。単なる法令遵守にとどまらず、この開示義務をいかにして企業価値向上の好機へと転換させるか、そのための実践的な手引きを提供します。

第1章:「人的資本経営」とは何か? - 投資家が注目する新たな企業価値の源泉

1-1. 人材は「コスト」から「資本」へ:定義の解説

「人的資本経営」とは、一言で言えば、人材を管理すべき「コスト」や「資源」としてではなく、価値創造の源泉となる「資本」として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営のあり方を指します 。  

ここでいう「人的資本」とは、単に労働時間や人数といった量的な側面だけを指すものではありません。従業員一人ひとりが持つスキル、知識、経験、ノウハウ、さらには仕事への意欲や創造性といった質的な要素の総体こそが、人的資本の核心です 。  

従来の経営が、人件費という「コスト」をいかに効率的に管理するかに主眼を置いていたのに対し、人的資本経営では、従業員の育成や働きやすい環境整備への支出を、将来の企業価値向上につながる「投資」と位置づけます 。このパラダイムシフトこそが、人的資本経営を理解する上での第一歩となります。  

1-2. なぜ今、注目されるのか:3つの大きな潮流

人的資本経営がこれほどまでに注目を集める背景には、単なる流行ではなく、構造的な3つの大きな潮流が存在します。

1. 企業価値の源泉が「無形資産」へシフト 現代の経済において、企業の競争優位性は、工場や設備といった「有形資産」から、ブランド、技術、そして人材といった目に見えない「無形資産」へと大きく移行しています 。特に、イノベーションや新たな価値創造を担う人材は、無形資産の中核であり、その質と量が企業の中長期的な成長を左右する最も重要な要素となっています。  

2. ESG投資の拡大と投資家の視点の変化 企業の持続可能性を評価する上で、環境(Environment)、社会(Social)、ガバナンス(Governance)の3つの要素を重視する「ESG投資」が世界の潮流となっています 。人的資本は、この中の「S(社会)」の中核をなすテーマです 。従業員のエンゲージメントが高い企業や、多様な人材が活躍できる企業は、生産性が高く、リスクへの耐性も強いと評価されます。投資家は、もはや財務情報だけでは企業の真の価値を測れないことを理解しており、人的資本への取り組みを、企業の持続的な成長可能性を見極めるための重要な判断材料として用いているのです 。  

3. 政府による後押しと「人材版伊藤レポート」の登場 日本国内においては、少子高齢化による生産年齢人口の減少や、国際的に低いとされる労働生産性といった課題に直面しています 。こうした状況を打開するため、経済産業省が主導し、2020年に「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会 報告書」、通称「人材版伊藤レポート」が公表されました 。このレポートは、経営戦略と連動した人材戦略の重要性を体系的に示し、日本企業と投資家との間で人的資本に関する共通言語を形成する上で、極めて重要な役割を果たしました 。  

これらの潮流が合流した結果として、今回の開示義務化が実現しました。つまり、この制度変更は、単発の規制強化ではなく、グローバルな資本市場の要請と国内の経済的課題への対応が結実した、必然的な帰結なのです。企業はこの開示義務を、単なる事務負担と捉えるのではなく、自社の価値創造のあり方を国内外の投資家に示す絶好の機会と捉えるべきでしょう。

第2章:法的義務化の核心 - 有価証券報告書で何を開示するのか

人的資本情報の開示義務化は、具体的な法令に基づいて定められています。ここでは、その法的根拠と、開示が求められる具体的な記載項目について、正確に解説します。

2-1. 法的根拠の明確化

まず、上場企業等が有価証券報告書を提出する義務は、金融商品取引法第24条に定められています 。そして、その有価証券報告書に記載すべき具体的な内容を定めているのが、「企業内容等の開示に関する内閣府令」(以下、開示府令)です。  

今回の人的資本に関する開示義務化は、この開示府令が2023年1月31日に改正・施行されたことによるものです 。これにより、金融商品取引所に上場している企業など、約4,000社が対象となります 。  

2-2. 開示が求められる2つの記載欄

開示府令の改正により、有価証券報告書において、人的資本情報は主に2つの欄に分けて記載することが求められます。この二部構成は、企業の思考プロセスを戦略的なものへと導くための、規制当局による意図的な設計と解釈できます。

記載欄1:戦略を語る「サステナビリティに関する考え方及び取組」欄(新設) この新たに設けられた欄では、企業のサステナビリティ全般に関する情報開示が求められますが、その中で人的資本は重要な要素として位置づけられています。ここで記載すべきは、以下の2つの方針と、それらに関連する指標です 。  

  • 人材育成方針:従業員の能力開発やスキル向上に関する会社としての方針。
  • 社内環境整備方針:多様性の確保や働きがいのある職場環境づくりに関する方針。
  • 上記方針に関する指標の内容等:これらの方針が単なるお題目で終わらないよう、具体的な指標、目標、そしてその実績を記載することが求められます。

記載欄2:具体的なデータを示す「従業員の状況」欄(既存) こちらは従来から存在する欄ですが、ここに新たに多様性に関する3つの具体的な指標の記載が義務付けられました 。  

  • 女性管理職比率
  • 男性の育児休業取得率
  • 男女間の賃金格差

この二部構成は、企業に対して「まず、自社の経営戦略に基づいた人材に関する独自のストーリー(方針)を語りなさい。その上で、そのストーリーの一部を裏付け、他社との比較を可能にするための共通データを開示しなさい」というメッセージを送っています。したがって、優れた開示とは、単に数値を並べるのではなく、「サステナビリティ」欄で展開する自社の戦略的ストーリーの中に、具体的なデータを有機的に位置づけることで、説得力のある情報発信を行うことに他なりません。

第3章:開示義務化された3つの多様性指標 - 具体的な計算方法と実務上の留意点

ここでは、「従業員の状況」欄で開示が義務付けられた3つの多様性指標について、その正確な定義と計算方法、そして実務担当者が押さえておくべき留意点を具体的に解説します。まずは、3つの指標の概要を以下の表で確認しましょう。

指標定義の要点基本的な計算式
女性管理職比率「課長級」以上の役職者(役員除く)が対象(女性管理職数÷全管理職数)×100
男女間賃金格差全労働者、正規、非正規の3区分で算出(女性の平均年間賃金÷男性の平均年間賃金)×100
男性の育児休業取得率公表前事業年度の実績を算出(育休等を取得した男性労働者数÷配偶者が出産した男性労働者数)×100

3-1. 指標1:女性管理職比率

定義のポイント この指標で最も重要なのは、「管理職」の定義です。開示府令では、「課長級」および「課長級より上位の役職(役員を除く)」にある労働者の合計と定義されています 。自社の呼称が「マネージャー」や「グループリーダー」であっても、その職務内容や責任の程度が実質的に課長級に相当すれば、これに含めて計算する必要があります。  

計算式 計算式は以下の通りです 。  

女性管理職比率(%)=管理職の総数女性の管理職数​×100

実務上の留意点 日本の女性管理職比率は平均で12.7%(令和5年度)と、政府が目標とする「2020年代の可能な限り早期に30%」には程遠い状況です 。自社の比率が低い場合でも、その数値をただ開示するだけでなく、その背景にある課題(例:長時間労働を前提としたキャリアパス、無意識の偏見(アンコンシャスバイアス)など)を分析し、改善に向けた具体的な取り組みを「サステナビリティ」欄で説明することが、投資家との建設的な対話につながります 。  

3-2. 指標2:男女間賃金格差

定義のポイント この指標は、以下の3つの区分それぞれについて、男性の平均年間賃金に対する女性の平均年間賃金の割合をパーセントで示す必要があります。これは実務上、非常に重要なポイントです 。  

  1. 全労働者
  2. 正規雇用労働者
  3. 非正規雇用労働者

「賃金」には、基本給だけでなく、賞与や各種手当などを含みますが、退職手当や通勤手当などは含みません。

計算式 各区分について、以下の計算式で算出します 。  

男女間賃金格差(%)=男性の平均年間賃金女性の平均年間賃金​×100

実務上の留意点 算出された数値が低い場合、それは必ずしも同一労働同一賃金の原則に反していることを意味するわけではありません。多くの場合、男女間の平均勤続年数の差、役職構成の違い、非正規雇用者に女性が多いといった構造的な要因が影響しています 。開示府令では、差異の状況に関する説明を任意で付記することが認められています 。この説明欄を積極的に活用し、差異の背景にある構造的要因を客観的に分析・説明することで、いたずらにネガティブな評価を受けるリスクを低減し、むしろ透明性の高い企業であるとの評価を得ることが可能です。  

3-3. 指標3:男性の育児休業取得率

定義のポイント この指標は、公表対象となる事業年度の一つ前の事業年度(公表前事業年度)における実績を計算します。分子の「育児休業等」には、育児・介護休業法に基づく育児休業や産後パパ育休などが含まれます 。  

計算式 計算式は以下の通りです 。  

男性の育児休業取得率(%)=(公表前事業年度中に)配偶者が出産した男性労働者の数(公表前事業年度中に)育児休業等を取得した男性労働者の数​×100

実務上の留意点:「100%超え」現象 この指標は、計算の仕組み上、100%を超えることがあります 。例えば、3月決算の企業で、ある男性従業員の配偶者が3月に(事業年度A)、その従業員本人が翌4月に育児休業を開始した(事業年度B)とします。この場合、分母である「配偶者が出産した男性労働者数」は事業年度Aでカウントされ、分子である「育児休業等を取得した男性労働者数」は事業年度Bでカウントされます。これにより、特定の年度において分子が分母を上回り、取得率が100%を超えるケースが発生し得ます。これは計算上の特性であり、誤りではありません。このような専門的な知識は、担当者の不安を解消し、正確な報告を助ける上で有益です。  

第4章:「守り」から「攻め」の開示へ - 企業価値を高める情報発信の3ステップ

開示義務化への対応は、単なるコンプライアンス遵守という「守り」の姿勢に終始すべきではありません。むしろ、これを自社の人的資本の強みや将来性をステークホルダーに積極的にアピールする「攻め」の機会と捉えるべきです。ここでは、企業価値向上につながる戦略的な情報発信を実現するための3つのステップを提案します。

4-1. ステップ1:経営戦略と連動した重要指標(KPI)の設定

前章で解説した3つの義務化指標は、あくまで開示の最低ラインです。真の人的資本経営を実践し、その価値を伝えるためには、自社の経営戦略やビジネスモデルに直結した、独自の重要業績評価指標(KPI)を設定することが不可欠です 。  

その際、強力な羅針盤となるのが、内閣官房が公表している「人的資本可視化指針」です 。この指針では、比較可能性の観点から開示が期待される項目として、以下の7分野19項目が例示されています 。  

  1. 人材育成:研修時間、研修費用、リーダーシップ開発など
  2. 従業員エンゲージメント:エンゲージメントスコアなど
  3. 流動性:離職率、定着率、後継者準備率など
  4. ダイバーシティ:女性管理職比率、男女間賃金格差、育児休業取得率など
  5. 健康・安全:労働災害発生率、健康経営への投資など
  6. 労働慣行:団体労働協約の対象となる従業員の割合など
  7. コンプライアンス:コンプライアンス研修の受講率など

企業はこれらの項目を参考にしつつも、自社の経営戦略にとって何が最も重要か(マテリアリティ)を特定し、それを測定するための独自のKPIを設定する必要があります 。例えば、イノベーションを経営戦略の核とする企業であれば、「従業員一人当たりの研修投資額」や「新規事業提案件数」などが重要なKPIとなり得ます。  

4-2. ステップ2:データの収集・可視化

効果的なKPIを設定しても、その元となるデータがなければ意味がありません。しかし、人的資本に関するデータは、人事システム、給与システム、研修管理システム、従業員サーベイの結果など、社内の様々な場所に散在しているのが実情です 。  

戦略的な開示を行うための第一歩は、これらの散在したデータを一元的に収集し、可視化する仕組みを構築することです。近年では、こうした課題に対応するため、人的資本データを自動で収集・集計し、ダッシュボードなどで可視化する機能を持つHRテクノロジー(タレントマネジメントシステムなど)が数多く登場しています 。これらのツールを活用することで、開示業務の効率化はもちろん、データに基づいたより深い組織分析や戦略的な意思決定が可能になります。  

4-3. ステップ3:ストーリー性のある情報発信と目標の開示

投資家が求めているのは、単なる数字の羅列ではありません。彼らが最も重視するのは、経営戦略、人材戦略、そして具体的なKPIが一本の線でつながった、説得力のある「価値創造ストーリー」です 。データは、そのストーリーを裏付けるための客観的な証拠として機能します。  

優れたストーリーには、以下のような要素が含まれます。

  1. 私たちの戦略(Our Strategy):「私たちは、〇〇市場において持続的な成長を目指しています。」
  2. そのための人材戦略(Our People Strategy):「この目標達成には、△△のスキルを持つ人材の育成と、多様な視点からイノベーションを生み出す組織文化の醸成が不可欠です。」
  3. 具体的な投資と取り組み(Our Investment & Actions):「そのために、私たちはリスキリングプログラムに〇〇円を投資し、新たなダイバーシティ推進施策を開始しました。」
  4. 進捗を示す指標(Our Metrics & Progress):「その進捗を測るため、私たちは『従業員エンゲージメントスコア』(前年比5%向上)や『女性管理職比率』(2025年までに15%を目標)といったKPIをモニタリングしています。」

金融庁が公表する「記述情報の開示の好事例集」や、日立製作所やオムロンといった先進企業の統合報告書は、このようなストーリーテリングの優れた手本となります 。複数年の実績推移を示したり、数値の変動理由を丁寧に説明したり、明確な将来目標を設定したりすることで、情報の信頼性と説得力を高めることができます 。  

このプロセスは、一度きりの報告で終わるものではありません。開示を通じて投資家や社会からフィードバックを受け、それを自社の人材戦略に反映させ、改善された取り組みと成果を次期の開示で報告する。この「開示と対話による改善のサイクル」を回していくことこそが、人的資本開示の本来の目的です 。このサイクルを実践することで、企業は単に報告内容を洗練させるだけでなく、実際の人材戦略そのものを強化し、組織としての競争力を高め、資本市場との強固な信頼関係を築くことができるのです。  

おわりに:人的資本経営は、持続的成長に向けた未来への投資

人的資本経営への移行と、それに伴う情報開示の義務化は、日本企業にとって大きな転換点です。これは、単なる報告義務の追加ではなく、企業の価値創造のあり方そのものが問われていることを意味します。

本稿で解説したように、法的要件を正確に理解し、遵守することはもちろん重要です。しかし、その本質は、コンプライアンスという「守り」の姿勢を超え、自社の人材戦略を企業価値向上のエンジンとして位置づけ、そのストーリーをステークホルダーに雄弁に語る「攻め」の機会にあります。

経営戦略と連動したKPIを設定し、データに基づいてその進捗を語り、社会との対話を通じて戦略を磨き上げていく。このプロセスを通じて、企業は持続的な成長の基盤を築くことができます。人材への投資、そしてその価値を透明性高く社会に伝えることは、もはやコストではなく、企業の未来を創造するための最も重要な投資なのです。経営者および実務担当者の皆様が、この歴史的な変化を好機と捉え、自社の持続的成長に向けた力強い一歩を踏み出すことを期待します。

-6.その他