はじめに:M&A成功の鍵は「税務」にあり
同じ10億円のM&Aでも、最終的な手取り額が数千万円以上も変わることがあるのをご存知でしょうか。その差を生む最大の要因こそが「税務」です。M&Aにおける税務戦略は、単なる手続き上の一項目ではありません。売手にとっては手元に残る資金を最大化し、買手にとっては投資回収の効率を左右する、ディールの価値そのものを決定づける重要な要素なのです。
M&Aのスキーム(手法)選択は、税負担に直接的な影響を及ぼします。特に中小企業のM&Aで頻繁に用いられる「株式譲渡」と「事業譲渡」は、税金の計算方法や課税される当事者が全く異なるため、両者の違いを正確に理解することが不可欠です。
本記事では、経営者や実務担当者の皆様がM&Aの実務で的確な判断を下せるよう、公認会計士の視点から税務戦略を徹底的に解説します。まず、M&Aで関わる税金の全体像を整理し、次に「株式譲渡」と「事業譲渡」それぞれの税務上の特徴を、売手・買手双方の視点から深く掘り下げます。さらに、両スキームのメリット・デメリットを比較検討し、最後に、M&Aをさらに有利に進めるための高度な節税戦略まで、具体的な事例を交えながら分かりやすくご説明します。この一本の記事が、皆様のM&A成功への確かな道しるべとなることを目指します。
第1章 M&Aで考慮すべき税金の全体像
M&Aで発生する税金は多岐にわたりますが、複雑に見える税金も、その性質によって大きく2つの種類に分類すると、全体像が非常に理解しやすくなります 。
- 儲けにかかる税金:M&Aによる株式や事業の売却で得た利益(儲け)に対して課される税金です。個人であれば「所得税」、法人であれば「法人税」がこれにあたります。一般的に、M&Aにおける税金の大部分を占めるのがこの「儲けにかかる税金」であり、税務戦略の中心的な検討対象となります 。
- 財産移動にかかる税金:M&Aに伴い、資産や権利が一方から他方へ移転する行為そのものに対して課される税金です。代表的なものに「消費税」「不動産取得税」「登録免許税」があります 。これらは利益の有無にかかわらず発生する可能性があるため、特に資産を個別に移転する事業譲渡のようなスキームでは注意が必要です。
これらの税金は、M&Aのスキームによって、誰が(売手か買手か)、どの税金を、いくら負担するかが大きく異なります。例えば、事業譲渡では、売手である法人が譲渡益に対して法人税を納める一方、買手は譲渡される資産に対して消費税や不動産取得税などを負担することになります 。
この根本的な構造の違いを理解することが、最適なM&Aスキームを選択するための第一歩です。次の章からは、最も代表的な2つのスキーム、「株式譲渡」と「事業譲渡」について、この税金の構造がどのように影響を与えるのかを具体的に見ていきましょう。
第2章 株式譲渡:税負担が軽いスキームの徹底解説
株式譲渡は、会社の支配権を株式の売買によって移転させる手法です。手続きが比較的簡便であることに加え、特に売手である個人株主にとって税負担が軽いという大きなメリットがあり、中小企業のM&Aで最も多く採用されています。
2-1. 売手の税務:個人株主の場合
個人株主が、自身が保有する会社の株式を売却して利益(譲渡所得)を得た場合、その利益に対して課される税率は、所得の金額にかかわらず一律で合計20.315%です 。
この税率の内訳は以下の通りです 。
- 所得税:15%
- 住民税:5%
- 復興特別所得税:0.315%(所得税額の2.1%)
税額の計算は、以下の式で行います 。
譲渡所得=譲渡価格−(取得費+譲渡費用)
税額=譲渡所得×20.315%
ここでいう「取得費」とは株式を取得したときの価額、「譲渡費用」はM&A仲介会社への手数料などが該当します。
この税制は「申告分離課税」と呼ばれ、給与所得や事業所得など他の所得とは合算せずに、株式の譲渡所得だけで独立して税額を計算する点が最大の特徴です 。もし他の所得と合算される「総合課税」の対象となれば、所得金額に応じて税率が上がる累進課税が適用され、最高で約55%もの税率が課される可能性があります。M&Aのように譲渡対価が大きくなる取引において、税率が20.315%に固定されている申告分離課税は、売手にとって極めて有利な制度といえます。
この課税方式の法的根拠として、所得税率15%は租税特別措置法第37条の10に、住民税率5%は地方税法の関連規定に定められています 。また、復興特別所得税は東日本大震災からの復興のための施策を実施するために必要な財源の確保に関する特別措置法(復興財源確保法)第13条に基づいています 。
2-2. 買手の税務:会計上の「のれん」と税務上の「落とし穴」
株式譲渡において、買手は株式という有価証券を取得するだけであり、原則として取引時に直接課税されることはありません 。株式の譲渡は消費税の非課税取引とされているため、消費税の負担も生じません 。
しかし、買手には税務上の重要な注意点が存在します。それは「のれん」の取り扱いです。M&Aにおいて、買収価格が対象会社の純資産額を上回る場合、その差額は会計上「のれん」として、買手の連結財務諸表に資産計上されます 。この「のれん」は、対象会社が持つブランド力、技術力、顧客基盤といった目に見えない価値を金額で表したものです。
会計上は資産である「のれん」ですが、税務上は全く異なる扱いを受けます。株式譲渡によって生じた「のれん」は、税法上の経費(損金)として償却することが認められていません 。買手から見れば、買収対価の一部として「のれん」の価値にお金を支払っているにもかかわらず、その投資額を将来の税負担を軽減するために使うことができないのです。これは買手にとって、M&Aの投資効果を判断する上で無視できない「落とし穴」となります。
この取り扱いは、一見すると買手にとって不利益なだけのルールのようにも思えますが、税制全体の整合性を保つための合理的な仕組みに基づいています。株式譲渡では、売買の対象はあくまで株主が持つ「株式」であり、対象会社そのものが資産を売却するわけではありません。したがって、対象会社の資産の税務上の簿価は変わらず、会社レベルでの課税は一切発生しません。このように、売手側である対象会社で課税が発生していないため、その裏返しとして、買手側で「のれん」という新たな損金算入を認めることはしない、というバランスが取られているのです 。この原則を理解することが、M&Aスキーム全体の税務効果を考える上で非常に重要です。
第3章 事業譲渡:柔軟性が高いスキームの税務インパクト
事業譲渡は、会社全体ではなく、会社の事業の一部または全部を資産・負債単位で個別に売買する手法です。必要な事業だけを切り出して売買できる柔軟性がありますが、税務上のインパクトは株式譲渡とは大きく異なります。
3-1. 売手の税務:法人にかかる重い税負担
事業譲渡における売手は、株主ではなく法人そのものです 。したがって、事業の売却によって得た利益(譲渡益)は法人の所得となり、他の事業の損益と合算された上で、法人税等の課税対象となります 。
譲渡益の計算式は以下の通りです 。
譲渡益=譲渡価格−譲渡資産の簿価
この譲渡益に対して課される法人税等の実効税率は、企業の規模や所在地によって異なりますが、およそ30%から35%です 。これは、株式譲渡における個人株主の税率20.315%と比較して、大幅に高い税率です 。
さらに、事業譲渡には「二重課税」という、売手オーナーにとって最も深刻な税務リスクが潜んでいます。
- 第1段階の課税:まず、法人が事業譲渡で得た利益に対して、約34%の法人税を支払います 。
- 第2段階の課税:法人税を支払った後の残りの利益は、まだ会社の中にあります。この資金を創業者である個人株主が手にするためには、役員退職金や配当といった形で会社から受け取る必要があります 。そして、この受け取った配当金に対して、再び個人株主の所得として所得税等が課税されるのです 。
このように、同じM&Aの利益が「法人段階」と「個人段階」の二度にわたって課税されるため、最終的に株主の手元に残る金額は、株式譲渡の場合と比較して大幅に少なくなってしまう可能性があります。この二重課税のリスクは、事業譲渡スキームを検討する上で最大のデメリットと言えるでしょう。
3-2. 買手の税務:将来の節税効果を生む「のれん」
売手にとって税負担が重い事業譲渡ですが、買手にとっては株式譲渡にはない大きな税務メリットが存在します。それは、株式譲渡では損金算入が認められなかった「のれん」の取り扱いです。
事業譲渡によって生じた「のれん」は、税務上「資産調整勘定」と呼ばれ、5年間(60ヶ月)にわたって均等に償却し、経費(損金)として計上することが認められています 。これにより、買手はM&A後の5年間にわたって法人税の負担を軽減することができ、M&A投資の回収を早める効果が期待できます。これは、買収の意思決定において非常に大きなインセンティブとなります。
この税務メリットが認められるのも、株式譲渡のケースと同様に、税制全体の整合性によるものです。事業譲渡では、売手である法人が譲渡益に対して法人税を納めています。つまり、売手側で「のれん」を含む資産の価値増加分に対して一度課税が行われているため、その対価を支払った買手側では、その価値(のれん)の償却による損金算入が認められる、という構造になっているのです。
一方で、買手は事業譲渡において、以下のような税金を直接負担する必要があります。
- 消費税:譲渡対象となる課税資産に対して10%の消費税がかかります。課税資産には、建物、機械、棚卸資産などの有形資産だけでなく、特許権などの無形資産、そして「のれん」そのものも含まれます 。土地や有価証券、売掛金などの債権は非課税です 。買手は資産の対価に消費税を上乗せして売手に支払い、売手がそれを国に納付します 。
- 不動産取得税・登録免許税:譲渡資産の中に不動産が含まれる場合、買手はその所有権移転に伴い、不動産取得税や登録免許税を負担する必要があります 。
第4章 「株式譲渡」vs「事業譲渡」:税務メリット・デメリットの徹底比較
ここまで見てきたように、株式譲渡と事業譲渡は、税務の観点から全く異なる性質を持っています。売手と買手、それぞれの立場から見たメリット・デメリットは表裏一体の関係にあり、M&Aの交渉においてはこの税務上の利害の対立がしばしば重要な論点となります。
売手の視点 売手であるオーナー経営者にとっての最大の関心事は、いかに多くの現金を最終的に手元に残せるか、という点です。この観点からは、ほとんどの場合、株式譲渡が有利となります。約20%の分離課税で完結する株式譲渡に対し、事業譲渡では約34%の法人税が課された上に、株主への利益還元時に再度課税される二重課税のリスクがあるためです 。
ただし、例外もあります。売手企業に多額の繰越欠損金(過去の赤字)がある場合、事業譲渡で得た利益と相殺して法人税の負担をゼロにできる可能性があります 。このようなケースでは、事業譲渡も有力な選択肢となり得ます。
買手の視点 買手にとっては、単純な有利・不利ではなく、戦略的なトレードオフの関係になります。
- 株式譲渡のメリット:手続きが簡便で、許認可等をそのまま引き継げることが多いです。消費税や不動産取得税といった取引時の税負担がありません。また、対象会社が持つ繰越欠損金を引き継いで、将来の利益と相殺できる可能性があります 。
- 事業譲渡のメリット:必要な資産・負債だけを選んで買収できるため、不要な事業や簿外債務などのリスクを引き継がずに済みます。そして最大のメリットは、のれんを5年間で損金償却できることであり、これにより将来の税負担を大きく軽減できます 。
この両者の利害関係をまとめたのが、以下の比較表です。M&Aの当事者がどのスキームを選択すべきか検討する際の、実践的な判断ツールとしてご活用ください。
表1:株式譲渡と事業譲渡の税務比較一覧
項目 | 株式譲渡 | 事業譲渡 |
売手側の税務 | ||
納税者 | 個人株主(または法人株主) | 事業を譲渡した法人 |
主な税金 | 所得税・住民税(個人の場合) | 法人税等 |
税率(目安) | 約20.315%(個人株主) | 約30%∼35% |
二重課税リスク | なし | あり(法人課税後、株主への配当等で再度課税) |
買手側の税務 | ||
のれんの損金算入 | 不可 | 可能(5年間で償却) |
消費税 | 非課税 | 課税(課税資産およびのれんが対象) |
不動産関連税 | なし | あり(不動産取得税・登録免許税) |
その他 | ||
契約・許認可の引継 | 包括的に承継(手続きが簡便) | 個別に再契約・再取得が必要(手続きが煩雑) |
負債の引継 | 会社全体を承継するため、簿外債務のリスクも引き継ぐ | 承継する負債を選択可能(リスクを遮断しやすい) |
第5章 M&Aを有利に進めるための高度な節税戦略
株式譲渡と事業譲渡の基本的な違いを理解した上で、さらにM&Aの価値を高めるための、より高度な税務戦略についてご紹介します。これらは専門的な知識を要しますが、活用することで税負担を劇的に軽減できる可能性があります。
5-1. 組織再編税制の活用:税負担なく事業を移転する
合併、会社分割、株式交換といった、より複雑な組織再編行為を行う際に適用されるのが「組織再編税制」です 。この制度の核心は、「適格組織再編」と「非適格組織再編」という考え方にあります 。
- 非適格組織再編(原則):資産・負債を時価で移転したものとみなし、譲渡損益を認識して課税が発生します 。これが税務上の原則的な取り扱いです。
- 適格組織再編(例外):一定の厳格な要件を満たす場合、資産・負債を簿価のまま引き継ぐことが認められます。この場合、譲渡損益が発生しないため、組織再編の時点では課税が生じません(課税が将来に繰り延べられます) 。
「適格」と認められるための要件は、再編当事者間の資本関係(100%親子会社間、50%超の親子会社間、共同事業など)に応じて細かく定められています 。一般的に、対価が株式のみであること(金銭不交付要件)、従業員の8割以上が引き継がれること(従業者引継要件)、主要な事業が継続されること(事業継続要件)などが求められます 。
この制度は、経済的に合理的な企業グループ内の再編等が、税負担によって阻害されることのないように設けられたものです。第三者への単純な事業売却に適用するのは難しいケースが多いですが、M&Aの前段階でグループ内の事業を整理したり、特定の事業を切り出して売却しやすくしたりするなど、戦略的に活用することで大きな効果を発揮します。
5-2. 【買手必見】中小企業事業再編投資損失準備金の徹底活用
中小企業のM&Aを促進するために、近年、画期的な税制優遇制度が創設されました。それが「中小企業事業再編投資損失準備金」制度です 。これは、M&Aの買手にとって極めて強力な節税策となります。
制度の仕組み この制度は、一定の要件を満たした中小企業が、株式取得によってM&Aを行った場合に、その株式取得価額の最大70%を「準備金」として積み立て、その事業年度の経費(損金)として計上できるというものです 。
効果 これは実質的に「課税の繰延べ」を意味します。M&Aを実行した年度の法人税負担が大幅に軽減されるため、買収に伴うキャッシュアウトを補い、手元資金を厚くすることができます 。積み立てた準備金は5年間の据え置き期間の後、6年目から5年間にわたって均等に取り崩し、利益(益金)として計上していきます 。つまり、税金の支払いを将来に先送りすることで、M&A直後の最も資金繰りが厳しい時期を乗り越えやすくする効果があります。
2024年度税制改正による拡充 さらに、2024年度の税制改正により、この制度は拡充・延長されました。特に、成長意欲の高い中小企業が複数回のM&Aを行うようなケースでは、積立率が最大100%に引き上げられ、据置期間も10年に延長されるなど、さらに使いやすく強力な制度となっています 。
この制度の活用には、事前に「経営力向上計画」を策定し、主務大臣の認定を受けるなどの手続きが必要ですが 、その効果は絶大です。中小企業のM&Aを検討する買手にとっては、必ず活用を検討すべき制度と言えるでしょう。
表2:中小企業事業再編投資損失準備金の活用要件と効果
項目 | 詳細 | |
目的 | 中小企業のM&Aを税制面から支援し、事業承継や成長投資を促進する。 | |
対象法人(買手) | 青色申告書を提出する中小企業者で、「経営力向上計画」の認定を受けた法人 。 | |
対象M&A | 他の中小企業の株式等を取得するM&A(取得価額10億円以下など) 。※グループ内や親族内承継は対象外 。 | |
積立率(損金算入割合) | 原則:株式取得価額の70%以下 。 | 2024年改正拡充措置:一定の要件を満たす場合、最大100% 。 |
据置期間 | 原則:5年間 。 | 2024年改正拡充措置:一定の要件を満たす場合、10年間 。 |
主な手続き | 1. M&Aの基本合意後等に「経営力向上計画」を策定し、主務大臣の認定を受ける。 2. 認定計画に基づき株式取得を実行。 3. 実行後に主務大臣へ報告し、確認書の交付を受ける。 4. 税務申告時に、認定書や確認書の写しを添付して損金算入を行う 。 | |
注意点 | ・据置期間中に買収した株式を売却したり、簿外債務が発覚して減損処理を行ったりした場合は、準備金が取り崩され、利益として課税されることがある 。 | ・制度の適用を受けるには、M&Aの最終合意前に経営力向上計画の認定を受ける必要がある 。 |
おわりに:最適な税務戦略でM&Aの価値を最大化する
本記事では、M&Aにおける税務の全体像から、代表的なスキームである「株式譲渡」と「事業譲渡」の税負担の違い、そして高度な節税戦略に至るまで、網羅的に解説してきました。
重要なポイントを改めて整理します。
- 株式譲渡は、売手個人株主の税負担が約20%と軽い一方、買手は「のれん」を税務上の経費にできない。
- 事業譲渡は、買手が「のれん」を5年間で償却でき節税メリットがある一方、売手法人には約34%の法人税が課され、さらに株主への利益還元時に二重課税のリスクを伴う。
- この税務上のトレードオフが、M&Aのスキーム選択と価格交渉における中心的な論点となる。
- さらに、組織再編税制や中小企業事業再編投資損失準備金といった高度な制度を活用することで、税負担を最適化し、M&Aの価値をさらに高めることが可能である。
M&Aは、企業にとって未来を切り拓くための重要な経営判断です。そして、その成功は、法務や財務だけでなく、税務という視点をいかに戦略的に組み込めるかにかかっています。
本記事がそのための基礎知識を提供しましたが、実際の税務は個々の企業の状況によって千差万別です。最適なM&Aを実現するためには、構想の早い段階から、経験豊富な公認会計士や税理士といった専門家に相談し、自社にとって最善のオーダーメイドの税務戦略を立案することが不可欠です。専門家と二人三脚で進めることで、M&Aの価値を最大限に引き出すことができるでしょう。