目次
はじめに:サステナビリティ開示の新時代、幕開け
サステナビリティ開示業務に日々奮闘されている経営企画、経理・財務、そしてサステナビリティ推進担当の皆様、本当にお疲れ様です。
近年、コーポレートガバナンス・コードの改訂やTCFD(気候関連財務情報開示タスクフォース)への対応、統合報告書の作成など、非財務情報に関する業務は増加の一途をたどっています。「やっとTCFD対応の型ができてきた」「社内の協力体制が整ってきた」と、少し安堵されている担当者様もいらっしゃるかもしれません。
しかし、ここで改めて気を引き締めていただきたい、日本の企業開示制度における歴史的な転換点が訪れようとしています。それが、SSBJ基準(サステナビリティ開示基準)の確定と導入です。
2025年3月、サステナビリティ基準委員会(SSBJ)より、いよいよ日本のサステナビリティ開示の「法定ルール」となる基準が正式に公表される運びとなりました。これは、これまでの「任意の開示(やっておくと評判が良くなること)」から、「法定開示(やらなければならない法律上の義務)」へと、ルールが根底から覆ることを意味します。これまでのCSRレポートや統合報告書で許容されていた「物語(ナラティブ)」中心の開示から、有価証券報告書という厳格な枠組みの中で、財務情報と同等の信頼性が求められる「数値と根拠」の開示へとシフトしなければなりません。
本記事は、実務の最前線に立つ皆様に向けて、SSBJ基準(特に「一般開示基準」と「気候関連開示基準」)が従来のTCFDと具体的にどう違うのか、そして有価証券報告書という公的な書類に記載するために、どのような準備と意識改革が必要なのかを、公認会計士の視点から分かりやすく解説するものです。
「専門用語が多くて基準書を読むのが辛い」「コンサルタントの資料は難解だ」と感じている方こそ、ぜひご一読ください。「なるほど、実務ではここを押さえれば良いのか」とアクションプランが明確になるよう、現場視点での解説を心がけました。必要な章から読み進めていただき、貴社のサステナビリティ経営の羅針盤としてご活用いただければ幸いです。
第1章:TCFD経験者こそ要注意!SSBJ基準導入の全体像と意識変革
まず最初に、最も重要な「意識の変革」についてお話しします。多くのプライム上場企業等では既にTCFD提言に基づく開示を行っていますが、SSBJ基準への移行は、単なる「開示項目の追加」や「マイナーチェンジ」ではありません。それは「メディア(媒体)の変化」と、それに伴う「責任の重さ(Liability)の変化」を伴う、ドラスティックな変革です。
1.1 「任意」から「義務」へ:有価証券報告書という重み
これまでのサステナビリティ開示の主戦場は、統合報告書やWebサイトのサステナビリティページでした。これらは企業が自由にデザインし、メッセージを発信できる「PR(パブリック・リレーションズ)」や「IR(インベスター・リレーションズ)」の側面が強い媒体でした。多少の誤字や、楽観的すぎる将来予測が含まれていたとしても、それが直ちに法的な罰則に繋がるケースは稀であり、修正もウェブサイトの更新で済むことが多かったはずです。
しかし、SSBJ基準に基づく開示は、「有価証券報告書(有報)」の中に組み込まれます。
有価証券報告書とは、金融商品取引法(金商法)に基づき、上場企業が作成・提出を義務付けられている、投資家のための最も重要な法定開示書類です。
経営者が負う法的責任の激変
ここに記載される情報に「虚偽」があった場合、どうなるでしょうか?
金融商品取引法第24条の4では、有価証券報告書の「虚偽記載」について、提出会社の役員等の賠償責任が明確に定められています2。
▼金融商品取引法 第24条の4(要約と実務的解釈)
有価証券報告書のうちに重要な事項について虚偽の記載があり、または記載すべき重要な事項が欠けている場合、役員等は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。
この条文が意味することは重大です。これまでは「野心的な目標(ムーンショット)」として許容されていた「2050年カーボンニュートラル」という宣言も、その達成に向けた具体的な根拠や資金計画が伴っていなければ、「投資家を誤認させる虚偽記載」とみなされるリスク(いわゆるグリーンウォッシュ・リスク)が格段に高まるのです。
さらに、金融商品取引法第24条の4の2では、確認書の提出も求められています。代表取締役自身が「この報告書の記載内容は適正である」と署名・捺印をするわけですから、もしサステナビリティ情報に誤りがあれば、経営トップの責任問題に直結します。
この「法的責任」の発生こそが、TCFDとSSBJの最大の違いであり、経営層に最も理解させなければならないポイントです。サステナビリティ担当者だけの問題ではなく、取締役会全体、さらには監査役を含めた全社的なガバナンスとリスク管理のマターとなるのです。
1.2 TCFDとSSBJ基準のギャップ分析(Gap Analysis)
では、実務レベルでは何が違うのでしょうか。SSBJ基準は、国際的な基準であるISSBのIFRS S1(一般要求事項)およびIFRS S2(気候関連開示)をベースに開発されており、TCFD提言とも整合性を持っています。しかし、「整合している」=「同じ」ではありません。SSBJの方がより詳細で、定量的かつ厳格な開示を求めています。
以下の表に、実務担当者が押さえるべき主な違いをまとめました。TCFD対応で満足していると、このギャップに足をすくわれることになります。
表1:TCFD提言とSSBJ基準の実務的な相違点一覧
| 比較項目 | TCFD(従来の任意開示) | SSBJ(今後の法定開示) | 実務対応のポイント(会計士の視点) |
| 開示媒体 | 統合報告書、Webサイト、サステナビリティレポート | 有価証券報告書(法定開示) | 監査法人によるチェックが入る前提でのデータ管理と証跡保存(トレーサビリティ)が必要になります。 |
| 報告対象範囲 | 主要子会社や国内拠点中心でも許容されがち(「カバー率80%」等の注記で対応) | 連結財務諸表と同じ範囲(原則100%) | 海外の孫会社や小規模販売拠点を含む、グループ全体のデータ収集網が必須となります。「データがないから除外」は原則通用しません。 |
| 報告期間 | 1月〜12月(海外子会社)と4月〜3月(親会社)の混在も可 | 財務諸表の報告期間と統一(原則) | 会計期間のズレを調整する実務が発生します。海外拠点のGHGデータを決算スケジュールに合わせて早期回収する体制が必要です(後述の「コネクティビティ」参照)。 |
| 財務的影響 | 定性的な記述(「コストが増える可能性がある」等)が中心 | 定量的な金額影響の開示を要求 | 「◯億円の減損リスク」「営業利益への〇%の影響」といった具体的な数字を算出する財務モデルが必要です。 |
| シナリオ分析 | 2℃以下を含むシナリオ分析(探索的アプローチ) | レジリエンス評価のための具体的分析 | 分析の前提条件(炭素価格、為替、GDP成長率等)を財務会計の見積もり(減損テスト等)と整合させる必要があります。 |
| GHG排出量 | Scope 1, 2の開示が中心。Scope 3は任意。 | Scope 3の絶対量開示が必須 | Scope 3の15カテゴリについて、算定または除外の根拠説明(重要性判断)が求められます。 |
| 保証(監査) | 第三者保証は任意(限定的保証が一部で実施) | 将来的な保証義務化を見据えた基準 | 当初は保証なしでスタートしても、数年以内の保証導入が既定路線です。内部統制の構築が急務です。 |
このように比較すると、SSBJ基準はTCFDの枠組み(4つの柱:ガバナンス、戦略、リスク管理、指標と目標)を使いつつも、その中身(コンテンツ)に対し、財務情報と同レベルの精度、網羅性、そして比較可能性を求めていることがわかります。これまで「ベストエフォート(努力目標)」で行っていた開示が、「マスト(義務)」に変わる瞬間です。
1.3 なぜ今、SSBJなのか?グローバルな文脈での理解
この変化は日本だけの話ではありません。欧州ではCSRD(企業サステナビリティ報告指令)が、国際的にはISSB(IFRS財団)の基準が策定され、「サステナビリティ情報は投資判断に不可欠な情報である」というコンセンサスが形成されました。
海外投資家は、「日本企業の気候変動リスクはどうなっているのか?」「横並びで比較できる数値データが欲しい」と強く求めています。SSBJ基準は、これに応えるための「日本版IFRS S1/S2」であり、日本の資本市場の信頼性を維持するためのインフラ整備なのです。
第2章:【一般開示基準】財務情報との「結合性」が最大の壁
SSBJ基準を理解する上で、最も重要かつ難解、そして実務上のボトルネックとなるキーワードが「結合性(Connectivity:コネクティビティ)」です。
これは、サステナビリティ情報と財務情報(貸借対照表や損益計算書)が、別々のサイロ(縦割り組織)で作られるのではなく、相互に論理的な繋がりを持ち、一貫していなければならないという概念です。
2.1 財務諸表との「前提条件」の一致:ストーリーの整合性
例えば、ある自動車部品メーカーがサステナビリティ開示(SSBJ基準)の中で、以下のような戦略を語ったとします。
サステナビリティ開示の記載:
「世界的な脱炭素の流れを受け、EV(電気自動車)シフトが急速に進みます。2030年には当社の主要市場においてガソリン車の販売が禁止されるシナリオに基づき、EV向け部品への転換を急ピッチで進めます。」
非常に前向きで力強いメッセージです。しかし、同じ有価証券報告書の後ろの方にある「財務諸表」の注記を見てみましょう。
財務諸表(減損損失の注記)の前提:
「既存のガソリンエンジン部品製造ライン(固定資産)については、今後20年間にわたり安定したキャッシュフローを生み出すと見込んでおり、減損損失は計上しておりません。」
ここには明白な「矛盾」があります。
- サステナビリティ情報: ガソリン車市場は2030年になくなる(=リスク大、資産価値低下のはず)。
- 財務情報: ガソリン車市場は今後20年安泰だ(=資産価値は維持される)。
この矛盾は、投資家から見れば「ダブルスタンダード」であり、経営者が将来をどう見ているのか、その本音が疑われます。SSBJ基準の一般開示基準では、こうした矛盾を許さず、サステナビリティ開示で用いた仮定(炭素税の導入時期、規制の強化、市場の縮小予測など)が、財務諸表上の見積もり(資産の減損、引当金の計上、繰延税金資産の回収可能性など)と整合しているかどうかを厳しく問います。
実務対応:経理部との対話
実務的には、サステナビリティ担当者が勝手にシナリオを作るのではなく、経理・財務部門と密に連携し、「将来予測のシナリオ」を統一する作業が不可欠です。これは、「経理部が知らないところでサステナビリティレポートが作られている」という従来の縦割り構造を打破することを意味します。
2.2 報告期間の統一という「実務の悪夢」
もう一つ、経理・財務担当者が頭を抱えるのが「報告期間の統一」です。
日本の多くのグローバル企業(3月決算)では、連結財務諸表の作成において、海外子会社(12月決算)の数値を3ヶ月ズレのまま取り込むことが認められています(連結実務上の特例)。
しかし、SSBJ基準(一般開示基準案)では、原則としてサステナビリティ情報の報告期間も財務諸表の報告期間と同じであることを求めています。
もし、財務側が「親会社(4月〜3月)」+「海外子会社(1月〜12月)」という変則的な期間で連結決算を組んでいる場合、サステナビリティ情報(GHG排出量など)も全く同じ期間で集計する必要があります。
ここで問題になるのが、「GHG排出量の集計スピード」です。多くの場合、海外の工場やオフィスからのエネルギー使用量データ収集は、請求書の到着遅れなどもあり、財務データよりも1〜2ヶ月遅れがちです。
- 従来の運用: 4月に前年1月〜12月のデータを集めて、夏頃の統合報告書に載せる(余裕がある)。
- SSBJの運用: 4月の財務決算発表と同時期(あるいは有報提出の6月)までに、海外子会社の1月〜3月のデータも含めた確定値が必要になる可能性がある。
SSBJの公開草案に対するパブリックコメントでもこの点に懸念が集中しており、最終基準では一定の柔軟性が認められる可能性もありますが、少なくとも「年1回のバケツリレー」ではなく、月次や四半期でデータを収集する体制(データ収集の早期化)への移行は避けられないでしょう。これは、グループ全体の業務プロセス変更を伴う大プロジェクトとなります。
2.3 マテリアリティ(重要性)判断の深化と文書化
「重要性(マテリアリティ)」の定義も、SSBJでは財務報告の視点に厳格化されます。
SSBJ基準適用基準(案)第4項(7)では、重要性について以下のように定義されています。
「重要性がある」とは、…(中略)…特定の報告企業に関する財務情報を提供する当該報告書に基づいて一般目的財務報告書の主要な利用者が行う意思決定に影響を与えると合理的に見込み得ることをいう。
これはISSBの定義と同様であり、いわゆる「シングル・マテリアリティ(財務的マテリアリティ)」の視点です。つまり、「環境や社会にとって重要か」という視点だけでなく、「その事象が投資家の意思決定(株価や企業価値評価)に影響を与えるか」が判断の最終基準となります。
実務担当者は、なぜその項目を開示するのか(あるいは、なぜ開示しないのか)という判断プロセスを、取締役会やサステナビリティ委員会での議論を経て文書化し、監査人に説明できるようにしておく必要があります。「他社が出しているから出す」という横並びの判断では、もはや説明責任を果たせません。
第3章:【気候関連開示基準】「定性」から「定量」への深化
次に、テーマ別基準である「気候関連開示基準」の核心に迫ります。ここはTCFDの4本柱(ガバナンス、戦略、リスク管理、指標と目標)を踏襲していますが、要求される解像度が格段に上がっています。
3.1 ガバナンス:取締役会の「本気度」を開示せよ
TCFDでは「気候変動リスクを監督する体制があります」といった形式的な説明でも許容される傾向がありましたが、SSBJではより具体的に、「個人の責任」や「スキル」、「報酬」にまで踏み込みます。
- 誰が責任者か: 具体的な役職や会議体だけでなく、気候関連のリスク・機会の監督に責任を負うガバナンス機関または個人の特定。
- 報酬との連動: 経営陣の報酬(役員賞与や株式報酬等)が、気候変動目標(GHG削減率など)の達成度とどのように連動しているか。連動していない場合は、なぜ連動させていないのか、その理由。
- スキルマトリックスへの反映: 取締役会が気候変動問題を議論するために必要な知見(専門性)を有しているか。
これは、「お飾りのサステナビリティ委員会」では通用しないことを意味します。投資家は、経営トップの報酬がサステナビリティ目標と紐づいているかを見ることで、その企業の本気度(コミットメント)を測ろうとします。
3.2 戦略:シナリオ分析と財務的影響の定量化
最も難易度が高いのが、戦略パートにおける「財務的影響の定量化」です。
気候変動のリスク(移行リスク・物理的リスク)と機会が、企業の財政状態(BS)、経営成績(PL)、キャッシュ・フロー(CF)に、具体的に「いくら」の影響を与えるのか、金額での開示が求められます。
定量化の実務イメージ
- 移行リスクの定量化例:
- 炭素税導入: 「2030年に炭素税が1トンあたり〇〇ドル導入された場合、当社のScope 1, 2排出量に基づくと、年間営業利益が〇〇億円(約〇%)減少する影響がある。」
- 市場の変化: 「主力製品であるガソリンエンジン部品の売上が20%減少した場合、売上高で〇〇億円の減収となる。」
- 物理的リスクの定量化例:
- 洪水・高潮: 「主要工場Aが立地するエリアでの洪水頻度の上昇により、操業停止リスクが高まる。過去の被災実績に基づくと、1週間の停止で〇〇億円の機会損失が見込まれる。」
- 機会の定量化例:
- 新製品: 「省エネ性能を高めた新製品の需要増により、売上が〇〇億円増加する見込み。」
これらを算出するためには、TCFDで行っていたシナリオ分析をさらに精緻化し、財務モデルと直結させる必要があります。SSBJ基準では、情報の有用性を高めるために、単一の数値ではなく、レンジ(幅)での開示も認められていますが、それでも「定性的な記述(影響が大・中・小)」だけでは不十分とされる可能性が高いです。
また、分析の結果、影響が「重要ではない」と判断した場合でも、なぜ重要ではないと判断したのか、その根拠を説明しなければなりません。
3.3 指標と目標:GHG排出量の厳格なルール
指標において中心となるのは、やはり温室効果ガス(GHG)排出量です。SSBJ基準(案)では、GHGプロトコルに基づく算定が原則求められます。
※GHGプロトコル(Greenhouse Gas Protocol)とは、企業や組織が温室効果ガス(GHG)排出量を算定・報告するための国際的な標準ガイドラインのことをいいます。
Scope 1・2・3の絶対量開示
Scope 1(自社直接排出)、Scope 2(エネルギー使用に伴う間接排出)、Scope 3(その他の間接排出)の全てについて、絶対量の開示が要求されます。これはTCFDではScope 3が「推奨」に留まっていたのに対し、SSBJでは明確に要求事項となっている点が大きな違いです。
Scope 2の「マーケット基準」と「ロケーション基準」
実務担当者を悩ませてきたScope 2の算定方法について、SSBJ基準では明確な方向性が示されています。
企業は、以下の2つの方法についての情報を開示することが求められる方向で議論が進んでいます。
- ロケーション基準(Location-based): 地域の送配電網から供給される電力の平均的な排出係数を使用する方法。
- マーケット基準(Market-based): 企業が契約している電力会社固有の排出係数や、購入した再エネ証書(非化石証書等)を反映した排出係数を使用する方法。
SSBJ基準案(第53項、54項)では、Scope 2の開示にあたり、契約証書に関する情報やマーケット基準による排出量を開示することが求められています。これにより、「再エネ証書を買ってScope 2ゼロ」と主張する場合でも、実際の電力系統からの排出実態(ロケーション基準)も併せて透明化されることになり、グリーンウォッシュの防止につながります。
産業別指標(SASB基準相当)への対応
SSBJ基準は、IFRS S2と同様に、産業別指標の開示を求めています。これは米国のSASB(サステナビリティ会計基準審議会)基準をベースにしたもので、業種ごとに開示すべき独自の指標が定義されています。
例えば:
- 自動車産業: 燃費性能、ゼロエミッション車の販売台数比率
- 半導体産業: 水資源のリスク管理、エネルギー管理
- 銀行業: 融資ポートフォリオの炭素排出量(Financed Emissions)
SSBJ基準では、「産業別指標を参照し、その適用可能性を考慮しなければならない」とされています。これは「Comply or Explain(遵守せよ、さもなくば説明せよ)」のアプローチに近く、必ずしも全て開示する必要はありませんが、「なぜ開示しないのか(なぜ自社には当てはまらないのか)」を検討するプロセスと説明が必要となります。
第4章:SSBJ対応の実務深掘り【Scope 3算定とデータマネジメント】
第3章までは「開示のルール」について解説しましたが、ここからはその裏側にある「泥臭い実務」、特に多くの日本企業にとって最大の難関であるScope 3とデータ管理について、実務ガイド的に解説します。
4.1 なぜSSBJでScope 3が必須なのか?投資家の視点
「自社の工場から出るCO2(Scope 1, 2)は把握できても、サプライチェーン全体(Scope 3)なんて無理だ」
多くの担当者がそう叫びたくなる気持ち、痛いほど分かります。しかし、SSBJ基準がScope 3の開示を求めるのには、投資家側の合理的な理由があります。
それは、「企業の気候リスクの大部分は、自社の外(バリューチェーン)にある」ことが多いからです。
例えば、小売業(スーパーマーケット等)であれば、店舗の照明や冷蔵庫の電力(Scope 2)よりも、販売する商品を製造・輸送する過程(Scope 3 カテゴリ1, 4)や、販売した食品の廃棄(カテゴリ12)に伴う排出が圧倒的に大きくなります。
投資家は、「将来、炭素税が導入されたら、この企業の仕入コストはどれくらい上がるのか?」「サプライチェーンのどこにコストアップ要因が潜んでいるのか?」を知りたいのです。
4.2 実務担当者を悩ませる「算定」の壁と攻略法
Scope 3は15のカテゴリに分かれていますが、SSBJ基準では「重要性がある」カテゴリを開示対象とします。実務上は、環境省の「サプライチェーン排出量算定をはじめる方へ」等のガイドラインを参考に、全カテゴリをスクリーニングし、重要性を判断することから始めます。
特に製造業において重要となるカテゴリについて、実務的な攻略法を解説します。
カテゴリ1(購入した製品・サービス):金額法から物量法へ
製造業において、通常最も排出量が大きくなるのがカテゴリ1(原材料・部品の調達)です。
基本計算式は「活動量 × 排出原単位」です。
- レベル1(初期段階):金額ベース手法
- 計算式:「鉄の購入額 1億円」×「産業連関表の排出原単位(鉄鋼部門:〇〇t-CO2/百万円)」
- メリット: 手元にある会計データ(仕入データ)ですぐ算定できる。
- デメリット: コスト削減努力が排出量削減に反映されにくい(単価が上がると排出量も増えて見える)。また、サプライヤーが再エネ導入努力をしていても、平均値を使うため反映されない。
- レベル2(SSBJ対応・高度化):重量ベース・一次データ手法
- 計算式:「鉄の購入量 100トン」×「サプライヤーA社の実測排出原単位(〇〇t-CO2/トン)」
- SSBJ基準や投資家は、この「一次データ(サプライヤー固有データ)」の比率を高めることを求めています。
カテゴリ11(販売した製品の使用):省エネ製品の貢献
自動車、家電、工作機械など、エネルギーを消費する製品を製造・販売している企業にとって、カテゴリ11は極めて重要です。ここはScope 3全体の大半を占めることも珍しくありません。
- 計算式:「年間販売台数」×「製品の年間消費電力量」×「製品の想定使用年数」×「電力排出係数」このカテゴリは、製品の省エネ性能を向上させればさせるほど、排出量が減るため、技術力をアピールする絶好の機会(気候関連の「機会」)でもあります。
サプライヤーエンゲージメントの現実解
しかし、数千社、数万社ある全てのサプライヤーから一次データを集めるのは不可能です。
実務的なアプローチとしては、「パレートの法則」を応用し、「排出量上位20%のサプライヤー(または取引金額上位のTier 1)で全体の80%をカバーする」といった戦略を立て、主要サプライヤーに絞ってデータの提供依頼(エンゲージメント)を行うのが現実的です。
環境省の「一次データ活用ガイド」等も参考に、標準的なフォーマットでデータを依頼し、サプライヤー側の負担にも配慮することが成功の鍵です。
4.3 「Excel管理」からの脱却と内部統制(J-SOX)
最後に、監査法人(CPA)として最も強く警告したいのが、「Excelによるデータ管理の限界」と「内部統制の構築」です。
有価証券報告書に記載するということは、将来的には財務諸表と同様に「監査(保証)」の対象になることを意味します。当初は「限定的保証」から始まる見込みですが、いずれは「合理的保証」へとレベルが上がっていきます。
監査人が現場に来てチェックするのは、最終的な数字(例:Scope 1 = 1,000トン)だけではありません。「その数字がどのように生成され、承認され、修正されたか」というプロセス(証跡)です。これを「内部統制」と呼びます。
▼Excel管理の典型的なリスク(監査上の不備)
- 「最新版_v3_修正_final.xlsx」のようなファイルが散乱し、どれが正しい数値か不明。
- 計算式が誰かの手操作によって誤って上書きされている(コピー&ペーストのミス)。
- 排出係数のマスタデータがいつの時点のものか不明。
- 誰が承認したのか、修正履歴(ログ)が残っていない。
これらは、J-SOX(内部統制報告制度)の観点からは「重要な不備」になりかねません3。
特にリモートワーク環境下では、担当者が自宅でExcelを操作し、そのプロセスがブラックボックス化するリスクが高まります18。
システム化と業務プロセスの標準化
SSBJ基準への対応を機に、Excelによる属人的なバケツリレーを卒業し、以下のような要件を満たす「サステナビリティ情報管理システム(SaaS等)」の導入を検討すべきです。
- データ収集の自動化: OCRやAPI連携による入力ミスの削減。
- 証跡管理(Audit Trail): 「誰が、いつ、何を」入力・修正したかのログが自動で残る。
- 承認ワークフロー: 担当者入力→課長承認→部長承認といったプロセスをシステム上で完結させる。
- マスタ管理: 排出係数のバージョン管理を一元化する。
弊サイトの「IPO準備における内部統制」の記事でも解説していますが、内部統制の構築は一朝一夕にはできません。まずは業務フロー図(3点セット)を作成し、リスクコントロールマトリックス(RCM)を整備するところから始める必要があります。
第5章:まとめに代えて~今日から始める実務ロードマップ~
ここまで、SSBJ基準の厳格さと実務への影響について、かなり詳細に解説してきました。「やらなければならないことが多すぎる」「ハードルが高すぎる」と圧倒されたかもしれません。
しかし、全てを初年度から完璧にこなす必要はありません。SSBJ基準には、導入初期の負担を軽減する「経過措置(リリーフ条項)」が設けられています。
5.1 実務担当者がまずやるべき「3つのステップ」
- 経過措置のフル活用を計画する(戦略的撤退)
- 「比較情報の開示免除」:適用初年度は、前年度の数値(比較情報)を開示しなくても良い。
- 「Scope 3開示の猶予期間」:Scope 3については、初年度からの開示が難しい場合、一定期間の猶予が認められる可能性があります。
- これらのカードを戦略的に使い、無理のないロードマップ(導入計画)を策定してください。
- 経理・財務部門を「共犯者」にする
- サステナビリティ部門だけで有報対応は不可能です。経理部門に「金商法対応のリスク」と「コネクティビティの重要性」を説明し、連結範囲の特定や決算スケジュールの調整に協力してもらいましょう。彼らは「期限を守る」「精度を担保する」ことのプロフェッショナルです。
- 弊サイトのサステナビリティ保証は未来への投資 も参照し、経理部門への説得材料にしてください。
- スモールスタートで「回してみる」(予行演習)
- 本番(強制適用)の前に、一度リハーサルとして、有報と同じ基準・スケジュールでデータを集めてみてください。そこで必ず「データが来ない」「計算が合わない」「海外子会社が定義を理解していない」というトラブルが起きます。その失敗こそが、本番に向けた最大の資産となります。
5.2 最後に:ピンチをチャンスに変える
SSBJ基準の導入は、日本企業のサステナビリティ経営が、単なる「スローガン」から、投資家と対話するための「共通言語」へと進化する歴史的な転換点です。
この変化を恐れず、むしろ「自社の企業価値を正しく評価してもらうためのチャンス」と捉えてください。正確なデータに基づく開示は、投資家からの信頼(トラスト)を生み、資本コストの低下や株価の安定につながります。
私たち公認会計士も、その道のりを全力でサポートいたします。
共に、新しい開示のスタンダードを築いていきましょう。
よくある質問(Q&A)
SSBJ基準の適用はいつから義務化されますか?また、早期適用は可能ですか?
SSBJ基準は、2025年3月末までに最終基準が公表される予定です。適用時期については、有価証券報告書における開示義務化の対象企業や時期が金融庁によって議論されていますが、時価総額の大きいプライム市場上場企業を中心に、最短で2027年3月期(2026年度)または2028年3月期からの適用開始が見込まれています。 一方で、投資家への積極的な情報開示姿勢を示すため、2025年3月期以降の早期適用も可能となる方向で制度設計が進んでいます。早期適用を行うことで、制度対応への習熟度を高めるとともに、グローバル投資家からの評価向上につながる可能性があります。
既にTCFD提言に沿って開示していますが、SSBJ基準対応で大きく変わる点は何ですか?
最大の変更点は、情報の「詳細さ」とプロセスの「透明性」です。骨子はTCFDと同じ4本柱ですが、SSBJ基準では以下の点が強化されます。
目標の根拠: 目標設定において「パリ協定などの国際協定」との整合性が必須となり、科学的根拠に基づかない目標は認められにくくなります。 これまでの自主的なストーリー開示から、データとプロセスに基づく客観的な報告へとシフトする必要があります。
リスク管理の深化: リスクの識別だけでなく、「優先順位付けの基準」や「継続的な監視方法」の具体的説明が求められます。
指標の厳格化: 産業横断的指標(GHG排出量、内部炭素価格など7項目)の開示が必須となります。
GHG排出量の算定で「温対法」のデータを使うことは認められますか?GHGプロトコルとの違いは?
はい、認められます。これはSSBJ基準の大きな特徴の一つであり、日本企業の事務負担軽減を考慮した措置です。SSBJ基準では、GHGプロトコルに基づく算定だけでなく、「地球温暖化対策の推進に関する法律(温対法)」に基づく算定方法の使用が許容されています。 ただし、温対法とGHGプロトコルでは、連結範囲の考え方(支配力基準か持分法基準か)や排出係数の選定などが異なる場合があります。グローバルな投資家との対話においては、GHGプロトコルとの差異について説明を求められる可能性があるため、海外投資家比率が高い企業は、GHGプロトコルへの準拠、または両基準のギャップ分析を行っておくことが推奨されます。
Scope 3(サプライチェーン排出量)の開示は必須になりますか?実務的な対応はどうすべきですか?
SSBJ基準(気候関連開示基準)において、Scope 3の開示は原則として要求事項(必須)に含まれています。これはTCFDでは「推奨」レベルであったものが、より強い要請となることを意味します。 しかし、Scope 3のデータ収集は多大な労力を要するため、適用初年度からの完全な開示には一定の経過措置(緩和措置)が設けられる可能性が高いです。実務的には、まずは自社の排出量全体に占める割合が大きいカテゴリ(例:カテゴリ1「購入した製品・サービス」やカテゴリ11「販売した製品の使用」)を特定し、主要なサプライヤーとのデータ連携や推計ロジックの整備を優先的に進めることが重要です。
ISSBの「産業別ガイダンス」は必ず守らなければなりませんか?
SSBJ基準では、ISSBの産業別ガイダンス(旧SASB基準をベースとしたもの)に記載された開示トピックや指標について、その適用可能性を検討(参照)し、開示することが求められています。 これは「全ての指標を必ず開示せよ」という意味ではありませんが、該当する指標を開示しない場合には、「なぜその指標が自社にとって重要ではないのか(マテリアリティがないのか)」を判断したプロセスや理由を説明できる論理構成が必要です。単に「データがないから開示しない」という理由は認められにくくなるため、ガイダンス項目ごとのマテリアリティ評価を実施することがファーストステップとなります。
サステナビリティ情報開示について、これまでに記載した記事はこちらになります。
- サスティナビリティ情報開示(1)【いつから?】有価証券報告書のサステナビリティ情報開示が義務化!SSBJ基準への対応を徹底解説
- サスティナビリティ情報開示(2)ESG情報開示、2025年から何が変わる?対象企業と義務化スケジュールを解説
- サスティナビリティ情報開示(3)なぜESG開示のExcel管理は「もはや限界」なのか?SSBJ基準義務化と第三者保証がもたらす3つの決定的リスク
- サスティナビリティ情報開示(4)サステナビリティ情報の第三者保証を徹底解説|日本の義務化スケジュールと企業が今すぐ準備すべきこと
- サスティナビリティ情報開示(5)【2023年義務化】人的資本経営の情報開示とは?対象企業から開示7分野19項目、伊藤レポート2.0まで徹底解説
- サスティナビリティ情報開示(6)サステナビリティ開示基準はいつから?強制適用の時期と実務ロードマップを公認会計士が完全解説
- サスティナビリティ情報開示(7)サステナビリティ開示基準とTCFDの決定的な違いは?一般・気候関連開示の実務完全ガイド
- サスティナビリティ情報開示(8)サステナビリティ開示基準対応の実務:Scope3算定とデータ収集の効率化手順を完全図解
- サスティナビリティ情報開示(9)【公認会計士解説】サステナビリティ保証実務指針5000とは?義務化時期と対応を徹底網羅
ここでは、あくまで私個人の視点から、皆様のご参考としていくつかの書籍をご紹介します。