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はじめに:経理・サステナ担当者を襲う「Scope 3」という大波
「Scope 3の算定、どこから手をつければいいのか途方に暮れている……」
「サプライヤーにデータを求めても、なかなか回答が返ってこない……」
「集めたデータが膨大すぎて、Excelがフリーズ寸前だ……」
公認会計士として、多くの上場準備企業や上場企業の支援現場に立っていると、最近このような悲鳴にも似た相談を受けることが急増しています。2025年3月にサステナビリティ基準委員会(SSBJ)から「サステナビリティ開示基準(以下、SSBJ基準)」が公表され、いよいよ日本でも「サステナビリティ情報の法定開示」が秒読み段階に入ったからです。
これまで、CSR報告書や統合報告書で「任意」に行っていた開示とは異なり、SSBJ基準に基づく開示は有価証券報告書の一部となり、「財務情報と同等の信頼性」が求められます。つまり、間違ったデータを載せれば、それは「虚偽記載」のリスクを負うことを意味し、経営者の責任問題にも発展しかねません。
中でも実務担当者を最も悩ませるのが、自社以外のサプライチェーン全体からの排出量を指す「Scope 3(スコープ3)」の算定です。範囲が広く、データの入手が困難で、かつ計算ロジックも複雑。まさに「実務の沼」と言える領域です。
本記事では、公認会計士としての「監査・内部統制」の視点と、現場の「泥臭いデータ収集」の経験を掛け合わせ、SSBJ基準に対応したScope 3算定の具体的な手順と、監査に耐えうるデータマネジメント(管理)の秘訣を解説します。
そもそもなぜ、SSBJでScope 3が必須なのか?
実務に入る前に、少しだけ「なぜやるのか」を整理しておきましょう。ここを理解していないと、社内の協力を得るときに説得力が生まれません。
投資家が見ている「リスク」の所在
かつて、企業の責任範囲は「工場の煙突から出る煙(Scope 1)」や「使用する電力(Scope 2)」まででした。しかし、現代のビジネスにおいて、環境負荷の大部分は自社の中ではなく、「原材料の調達(上流)」や「販売した製品の使用・廃棄(下流)」に潜んでいます。
投資家は、炭素税の導入や気候変動によるサプライチェーンの断絶といった将来リスクを評価する際、「その企業がバリューチェーン全体のリスクをどれだけ把握し、管理できているか」を重視します。SSBJ基準が、国際的な基準(IFRS S2)と整合性をとりながらScope 3の開示を求めるのは、これが投資判断に不可欠な「財務情報」の一部だとみなされているからです。
Scope 1, 2, 3の定義と境界線
まずは基本用語をクリアにしておきましょう。Scope 3の算定漏れを防ぐには、この境界線(バウンダリ)の理解が不可欠です。
| Scope(スコープ) | 定義 | 具体例 | 責任の所在 |
| Scope 1 | 事業者自らによる直接排出 | 工場のボイラー燃焼、社有車のガソリン使用、工業プロセスからの排出 | 自社 |
| Scope 2 | 他社から供給された電気、熱・蒸気の使用に伴う間接排出 | 本社オフィスや工場の購入電力、地域冷暖房の利用 | 電力会社等(使用量は自社責任) |
| Scope 3 | Scope 1, 2以外の間接排出(サプライチェーン排出量) | 原材料の調達、物流、出張、通勤、販売した製品の使用、廃棄など | 取引先・顧客・従業員 |
SSBJ基準(サステナビリティ開示テーマ別基準第2号「気候関連開示基準」)では、このScope 3を含めた温室効果ガス(GHG)排出量の開示を求めており、特にScope 3については、カテゴリごとの内訳開示が求められる方向です(サステナビリティ開示テーマ別基準公開草案第2号「気候関連開示基準」)。
実務担当者を悩ませる「算定」の壁:基本式とカテゴリ別攻略法
Scope 3には15のカテゴリ(分類)がありますが、すべてを最初から完璧に計算するのは不可能です。まずは「算定の基本式」を理解し、特に排出量が大きくなりがちな重要カテゴリ(ホットスポット)を攻めるのが定石です。
基本計算式:「活動量 × 排出原単位」の魔法
Scope 3算定の9割は、以下のシンプルな掛け算で成り立っています。
【Scope 3算定の基本公式】
排出量(t-CO2) = 活動量 × 排出原単位
- 活動量 (Activity Data):企業の活動の規模を表すデータです。「購入金額(円)」「購入重量(kg)」「電気使用量(kWh)」「貨物の輸送トンキロ(t-km)」などが該当します。
- 排出原単位 (Emission Factor):活動量1単位あたり、どれくらいのCO2が出るかを示した係数です。環境省やIDEA、Ecoinventなどのデータベースから引用します。
公認会計士のワンポイント・アドバイス
経理担当者であれば、「活動量」は「試算表の金額」や「請求書の数量」、「排出原単位」は「単価」のようなものだとイメージしてください。この「活動量」をいかに正確に、網羅的に集めるかが、Scope 3算定の品質(=監査での指摘の少なさ)に直結します。監査では、この「活動量の根拠データ(請求書等)との突合」が必ず行われます。
最重要!カテゴリ1(購入した財・サービス)の効率的な集計法
多くの企業(特に製造業や小売業)において、Scope 3全体の排出量の7〜8割を占めるのが、この「カテゴリ1:購入した財・サービス」です。
原材料、部品、容器包装、事務用品、広告宣伝費、クラウドサーバー費など、外部にお金を払って調達したあらゆる「モノ・サービス」が含まれます。
ステップ1:金額ベース算定
いきなり「重量」を集めるのは困難です。まずは経理データの「仕入高」や「経費帳」を活用し、金額でざっくり計算します。
- 計算式:購入金額 (百万円) × 金額当たり排出原単位 (t-CO2/百万円)
- メリット:経理データを使うため、網羅性が高い(「抜け漏れ」を防げる)。
- デメリット:価格変動の影響を受ける。高価な材料ほど排出量が多く計算されてしまう。
ステップ2:重量ベース算定への移行
排出量が大きい主要原材料(鉄、プラスチック、紙など)については、購買データを紐解き、「購入重量(kg)」や「個数」を把握します。
- 計算式:購入重量 (kg) × 重量当たり排出原単位 (t-CO2/kg)
- メリット:コスト削減努力(単価交渉)と、脱炭素努力(使用量削減)を切り分けて評価できる。
よくある失敗事例:原材料以外の見落とし
カテゴリ1は「原材料」だけではありません。事務用品、制服、洗剤、水、そしてITサービス(クラウド利用料)なども対象です。これらが漏れていると、第三者保証(監査)の現場では「網羅性の欠如」として指摘事項になります。「総勘定元帳の費目」をベースに、対象外とするものを除外していくアプローチ(ネガティブチェック)が有効です。
カテゴリ11(販売した製品の使用)の推計ロジック
自動車、家電、ガス機器など、「エネルギーを使って動く製品」を製造・販売している企業にとって、カテゴリ11は極めて重要です。SSBJ基準でも、このカテゴリの開示は投資家の関心が高い事項として注視されます。
- 計算式:年間販売台数 × 製品寿命 (年) × 年間消費エネルギー × エネルギー排出原単位
【設例:エアコンメーカーA社の計算】
読者の皆様の実務イメージを沸かせるため、具体的な計算を見てみましょう9。
- 今年度販売台数:10,000台
- 製品の想定使用年数:10年
- 1台あたりの年間消費電力:800 kWh
- 電力排出原単位:0.00045 t-CO2/kWh
排出量 = 10,000 × 10 × 800 × 0.00045 = 36,000 t-CO2
このように、たった1年間の販売活動から、将来10年分の排出量が計上されます。「省エネ性能の高い製品」を開発・販売することが、ダイレクトにScope 3削減につながる仕組みです。
二次データから一次データへ:サプライヤーエンゲージメントの進め方
Scope 3算定の旅には、「データベースの平均値(二次データ)」から「サプライヤーの実測値(一次データ)」へという進化のプロセスがあります。
なぜ「二次データ」では限界があるのか?
環境省などが公表している「二次データ(排出原単位)」は、あくまで日本全体の平均値です。
例えば、あなたが頑張って「再エネ100%で作られた高価なアルミ」を調達したとします。しかし、計算に「一般的なアルミの平均原単位」を使っている限り、計算結果上のCO2排出量は減りません。これでは、自社の削減努力が報われませんよね。
経理的なアプローチ:「パレートの法則」で優先順位をつける
全サプライヤー数千社に「CO2排出量を教えてください」とアンケートを送っても、現場が混乱するだけです。ここで会計監査でも使う「重要性の原則」を適用します。
- 取引額の上位80%を占めるサプライヤーを特定する(パレート分析)。
- その中で、特に炭素集約度が高い(鉄鋼、化学、運輸など)企業をピックアップする。
- その数社~数十社に対してのみ、具体的な一次データの提供を依頼する(エンゲージメント)。
環境省の「一次データ活用ガイド」などを参照し、サプライヤーと対話を進めましょう。これは単なるデータ収集ではなく、サプライチェーン全体でのリスク共有の機会でもあります(環境省 サプライチェーン排出量算定における一次データ活用ガイド)。
将来の「第三者保証」に備えるデータマネジメントとシステム化
SSBJ基準に基づく有価証券報告書の開示は、将来的には監査法人等による「第三者保証」が義務付けられる見込みです(2027年3月期以降、段階的に適用予想)。
「Excelバケツリレー」での管理は、保証を受ける段階で破綻します。
脱Excel!監査証跡(Audit Trail)を残すためのシステム要件
Excel管理には以下の致命的なリスク(監査上の欠陥)があります。
- 属人化のリスク:「あの複雑なマクロはAさんしか触れない」という状態は、内部統制上「脆弱」と評価されます。
- 変更履歴の欠如:「いつ、誰が、なぜこの数値を修正したのか分からない」ことは、データの信頼性を根本から揺るがします。
- 転記ミス:メールで送られてきた数値をコピペする際の手作業ミスは、ヒューマンエラーとして必ず発生します。
SSBJ基準の適用基準第3項などで求められる水準(…サステナビリティ開示基準に準拠して作成しなければならない)を満たすには、以下の要件を備えたデータ管理体制が必要です。
- トレーサビリティ(追跡可能性):最終的な排出量(例:100 t-CO2)から、その根拠となった請求書データや活動量データ(例:ガソリン50kL)までドリルダウンできること。
- 承認フロー(Internal Control):担当者が入力したデータを、管理職が承認して初めて確定値となるプロセスがあること。
- IT全般統制:システムへのアクセス権限が適切に管理されていること。
経理システムとの連携が鍵
効率化の切り札は、「経理データとの自動連携」です。
Scope 3 カテゴリ1(購入品)の元データは、すべて「請求書」にあります。最近のクラウド経費精算システムや請求書受領システム(TOKIUMやマネーフォワードなど)は、入力された請求書データをGHG(Greenhouse Gas(温室効果ガス))の算定ツール(Zeroboardやe-dashなど)にAPI連携させる機能を持っています。
【理想的なシステム連携フロー】
- 請求書受領システムで、経理担当者が勘定科目や品目を入力。
- GHG算定ツールがデータを自動取得(API連携)。
- AIが品目名から最適な排出原単位を自動提案(例:「ガソリン代」→「ガソリン原単位」)。
- サステナビリティ担当者は提案を確認・承認するだけ。
このように、「お金の流れ(財務)」と「炭素の流れ(非財務)」をシステム上でコネクト(結合)させることこそが、SSBJ基準が求める「コネクティビティ」の実践であり、実務工数を劇的に下げる唯一の解です。
導入ロードマップと今やるべきこと
SSBJ基準は、2025年3月の確定公表を経て、以下のスケジュールで適用が進む見通しです。
| 対象企業(時価総額) | 任意適用 | 強制適用(見込み) | 保証義務化(見込み) |
| 全社(プライム等) | 2026年3月期〜 | - | - |
| 3兆円以上 | - | 2027年3月期〜 | 2028年3月期〜 |
| 1兆円以上 | - | 2028年3月期〜 | 2029年3月期〜 |
このスケジュールから逆算すると、強制適用年度の前年度(N-1期)には、比較情報の収集体制が整っていなければなりません。特にScope 3はデータの収集に時間がかかるため、今すぐ「カテゴリの特定」と「データ収集フローの整備」に着手する必要があります。
まとめ:スモールスタートで精度を高めるPDCAサイクル
SSBJ基準への対応は、一朝一夕には完了しません。しかし、恐れる必要はありません。最初から100点の精度を目指すのではなく、まずは「網羅性」を確保し、徐々に「精度」を高めていくアプローチが正解です。
- まずは「金額ベース」で全体像を把握する(算定の網羅性)。
- 排出量の多い「ホットスポット」を特定する(重要性の判断)。
- 重要カテゴリから順に、実測値(一次データ)へ切り替えていく(精度の向上)。
- Excelから専用システムへ移行し、監査に備える(信頼性の確保)。
このサイクルを回すことで、貴社のサステナビリティ経営は「開示のための開示」から、「企業価値向上のための戦略ツール」へと進化します。経理部門とサステナビリティ部門が手を取り合い、この新しい荒波を乗り越えていきましょう。
よくある質問(Q&A)
Scope 3の算定は、全カテゴリ(1〜15)を計算しなければなりませんか?
原則として全カテゴリの確認が必要ですが、重要性がない(排出量が極めて少ない、事業に関連がない)カテゴリについては、「開示しない」という判断も可能です。ただし、その場合は「なぜ開示しないのか(非重要である理由)」を説明できるように準備しておく必要があります。まずは環境省のガイドライン等を参考に、自社の事業特性に合わせてマテリアリティ(重要性)の高いカテゴリを特定しましょう。
2025年3月にSSBJ基準が公表されましたが、いつから強制適用になりますか?
時価総額3兆円以上のプライム市場上場企業は、2027年3月期(2028年提出の有報)からの適用が見込まれています。それ以外のプライム上場企業(1兆円以上等)も順次適用となり、最終的には全プライム企業へ拡大される予定です。ただし、早期適用(2026年3月期〜)も認められています。
「一次データ」を集めるのが大変です。すべて「二次データ」ではダメですか?
SSBJ基準やIFRS S2では、可能な限り企業の固有の実態を反映したデータの使用が推奨されています。すべて二次データ(平均値)で計算すると、サプライヤーと協力して排出削減努力をしても数値に反映されず、投資家からの評価が得られない可能性があります。まずは排出量の多い主要サプライヤーから優先して一次データの取得を目指すのが現実的です。
Scope 3のデータ収集に、子会社のデータも含める必要がありますか?
はい、必要です。SSBJ基準における報告対象範囲(報告企業)は、原則として財務諸表の連結範囲と同じです。したがって、国内外の連結子会社の事業活動に伴うScope 3排出量も合算する必要があります。これが「網羅性の壁」と呼ばれる難所ですので、早期にグループ全体のデータ収集体制を構築することが重要です。
算定システムを導入しないとSSBJ対応は無理ですか?
「無理」ではありませんが、Excelでの管理には限界があり、リスクが高いのが現実です。将来的に第三者保証(監査)を受ける際、変更履歴の追跡や計算式の正確性を証明するために膨大な工数がかかります。長期的なコストとリスクを考えると、経理システムと連携したクラウド型のGHG算定ツールの導入を強く推奨します。
サステナビリティ情報開示について、これまでに記載した記事はこちらになります。
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- サスティナビリティ情報開示(7)サステナビリティ開示基準とTCFDの決定的な違いは?一般・気候関連開示の実務完全ガイド
- サスティナビリティ情報開示(8)サステナビリティ開示基準対応の実務:Scope3算定とデータ収集の効率化手順を完全図解
- サスティナビリティ情報開示(9)【公認会計士解説】サステナビリティ保証実務指針5000とは?義務化時期と対応を徹底網羅
ここでは、あくまで私個人の視点から、皆様のご参考としていくつかの書籍をご紹介します。